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【ひっこし日和】11軒目:オール電化の男の家

ちょっと時系列が前後してしまうのだけど、はじめて男の家に転がりこんだ。その男の言いぶんでは、好きだったらうちにひっこしてきたいだろう、当面の洋服や身のまわりのものを持ってきてここから仕事に行けばいい、ということだった。

正直に言って、うーん、という気持ちだった。
別に、好きである。
別に好きだけど、うーん、と思った。

自分の行動が他人から丸見えになってしまうことがいやだった。一日中パジャマのまま過ごす日もほしいし、男に内緒の時間もほしかった。反対に、男もわたしに内緒の時間をつくるべきだと思っていた。浮気するとかでなく、互いのことを知らない時間というものがあってもよい。

でも、好き=四六時中一緒にいたい、ではないということを十も年上の男に言えなかった。そうだねえなんて濁しながらも男が諦めなかったので、完全にひっこすのではなく、実家に帰るときもあれば男のうちに帰ることもあればということならまあいいか、と思い、ボストンバックに洋服やら化粧品やらを詰めた。

男はわたしが洋服を入れる場所をあけておいてくれ、調理器具の説明やインターフォンの使い方などを教えてくれ、その夜は男の実家から電話までかかってきて挨拶することとなった。

別に、好きだけど。

別に好きだけど、なんだか自分のまわりにガンガンと柵を建てられたような閉塞感があって、わたしはそこで飼われている足の折れた子ヤギのような気持ちになってしまった。男もわたしを足の折れた子ヤギのように扱った。歩けるよと言っても車で迎えにきて、ちょっとでも帰りが遅くなるとハウス! と怒った。

ただ、その家は快適だった。男がどのくらいの給料をもらっていたのか知らないが、モデルルームのような高級マンションで、はじめてのオール電化。オール電化ってすごいのだ。

コンロにタイマーがついているからずっと見ていなくてもなんでもじょうずに作れるし、弱火といえば1で中火といえば3だから火加減のブレがない。今でいうほったらかし家電のように便利。といってもわたしが料理することは滅多になかった。ひとり暮らしの長い男が料理に自信を持っていたので、わたしはなぜか何もできないふりをしてしまったのだった。

「あゆみは若いからなんにも知らないなあ」と言う男が好きだった。妹にとっての母代わりをし、父にとっての妻代わりをして責任という重たいものを抱えて暮らしてきたから、なんにもできない自分になれるその空間は居心地がよかった。

男はいろんなものをつくってくれたし、まめまめしく動く人だった。仕事から帰ってきたら台所に立って何かつくってくれ、実は今でも男から教えてもらったレシピを作ることがある。いっしょにDVDを見ながら飲んでいても、ビールがあいたら冷たい缶を取りに立つのは男だった。グラスは冷凍庫に冷えていて、わたしが一度好きだと言ったコーンフレークはいつも買ってあり、わたしが本を読んでいる横で床拭きしはじめるからわたしがすると言うと、いいのいいのと働いた。

おかげで男のうちはいつでもきれいだった。柔らかいガーゼでできた白いシーツは数日置きにベランダに干され、靴のすべてにシューキーパーと脱臭剤が入れられている。家っていうのは引き出しの中が汚くてクローゼットをあけるとぐちゃぐちゃになった洋服がなだれ出てくるもんだと思っていたから、男の荷物の少なさと管理のよさに驚いた。

飼い慣らされた子ヤギは駅を出て歩こうと思うより先に男に電話して迎えにきてもらうようになり、帰ったらソファにじっと座ってエサを待った。少しずつわたしに仕事も課された。実家から荷物が送られてきたらお礼の葉書を書くことや、男の電話からには絶対に出ること、いや、振り返ってみればその程度のことだったけれど、なんだかそれが妙に苦痛だった。

春風が心地よくなってまいりましたが、いかがお過ごしでしょうか。このたびはまたさまざまな贈り物をしてくださり、ありがとうございますと知らない人に向かって書くのがつらくなり、「えー、まだ書いてない」と言うと怒られた。

ある日わたしは男の電話に出なかった。はじめからこの日は出ないと決めていたわけじゃなく、かかってきた携帯電話の画面を見て、出たくないな、と思った。二度たてつづけにかかってきて、時間を置いてもう一度。みるみる着信履歴は男の名前ばかりになり、その重たすぎる携帯電話を持って実家に帰った。

夜中に男から、それはそれは長い長いメールが届いた。なぜ電話に出ないのかということよりも、わたしへの数々の不満が記憶が遠くなるほど書かれていた。出すと言った葉書を出していないこと、髪の毛をといたあとクイックルワイパーをかけておかないこと、牛乳を飲んだコップをそのままにしておくこと、飲みに行く回数が多いこと、男友だちがいること、そんなことを思っていたなんてちっとも知らなかったということも盛りだくさんに書かれていて最後まで読んだら呼吸困難になりかけた。

電話は一切かかってこなくなった。置いてきた荷物をどうしようかと過ぎったが、こちらからアクションを起こす勇気はなかった。

やがて共通の友だちづてに、荷物を取りにきて鍵を返せという噂が流れてきた。ひとりで行くのは恐ろしかったので、友だちと一緒に男の家のドアを開けると、玄関にわたしの荷物がちんまりとすべてととのって置かれていた。男はいたのかいなかったのか、リビングにつづくドアには「立入禁止」と書かれた張り紙があってようすはわからなかった。

一度も会わないまま、そうして終わった。

恋をするというのは切ない。どんなに大切だった人とも一度恋をして別れてしまうと、地球の裏側にいる人より遠い存在になってしまう。大好きであればあるほどずっと友だちのままでいるほうが結果的にいいのではないかと、そのほうが失わずにすむのではと、このあとも何度も思った。

でもどういうわけか恋をしてしまうのだよね。導かれるように。


つづく

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