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【ひっこし日和】6軒目:熱帯魚屋の上のマンション

「あのさあ、ひっこそうと思うんだけど」
件のしようもない父が不意に言った(5軒目参照)。

やだ。
何も聞かないうちからいやだった。一年前に転校したばかりでやっと友だちができ、好きな人もでき、ようやく学校が楽しくなりはじめていたからだ。
「そうかー、でももう決めちゃった」

ことの経緯はこうだった。父に、熱帯魚屋をひらかないかと誘ってきた人がいたのである。その人がオーナーではあるが店の改装や経営は好きなようにしてよく、住居も用意してくれるというウマイ話が転がりこんできて、父はホイホイと返事したというわけだ。

いや、ちょっと待ってよ。なにその熱帯魚屋って。熱帯魚なんて飼ったことないじゃん。って、中1のわたしでも思うのに父は思わない。パパむかしから水族館好きだったんだよなあ、とか言ってるのである。

店をひらく場所は山梨県甲府市。これまでのひっこしはすべて同じ市内のことだもの、とつぜんすぎる。「父の仕事の都合で山梨に……」と友だちに言うと「え? だってあゆみんちってペットショップだよね?」と言われた。まあ、そうよね。「いやあ、なんか親が山梨で熱帯魚屋やるらしくて」って、意味不明。

だけど準備は着々と進み、たった一年しか住んでいないライオンズマンションの荷物をまとめて、その夏わたしたちは山梨へとひっこす羽目になった。縁もゆかりもなく、昇仙峡に一度行った記憶しかなく、=信玄餅くらいの山梨県に、だ。

甲府南インターで降りるとすぐだ、甲府駅からもすぐだと、ひっこしのさなか父が何度か口にしたけれど、東京でない限り無意味だった。当時わたしはだいじな習いごとをしていたので、東京を離れたら人生終わりだとまで思っていた。でもそんなことを聞く父じゃなかったし、習いごとのときは東京に送るから大丈夫だと言った(結局かいじ号に乗ってひとりで行ったけど)。

夏のあいだに、父の熱帯魚屋は工事を終えた。店いっぱいに水槽が並び、大量の水が注ぎこまれ、ついに魚だらけになった。人一倍記憶力のいい父はすぐに魚の種類を覚え、持ち前の人たらしさであっという間に方々に友だちをつくった。こっちは初日から怖い職業のお父さんを持つ子に目をつけられ、セーラー服のリボンの結び方がおかしいだの鞄のかけ方が違うだの言われたからつい口ごたえしちゃって大変なことになっているというのに、呑気なもんである。

このころのわたしの口癖は「これだから山梨は!」だったと思う。惣菜売り場で虫(いなご)を見つけたときも、ヘルメットをしないで自転車に乗っていて怒られたときも、掃除のあとジャージのまま帰宅するのが普通だと言われたときも、父子家庭で驚かれたときも、これだから山梨は! と言っていた。

それにいつも「ほんとだよね!」と相槌を打ってくれていた妹は、なんとひっこし後3日で「お姉ちゃんもそうずら?」なんてあっさり甲州弁になってしまったもんだから、この裏切り者! と東京VS山梨の大げんかになった。妹は父に似て順応性が高いのである。

そんな山梨の生活で癒しになっていたのは、変なもんだが父の熱帯魚屋だった。わたしはよく店に顔を出し、ときどき配達中の父の代わって店番した。

ボコボコボコボコ……とポンプの音がするだけの、少し生ぐさい静かな空間。魚のうろこが角度によって違う色に光るのが楽しくて、いつも水槽の前にパイプ椅子を持ってってじいっと見ていた。お客さんなんてこなかった。

魚の名前もかなり覚えた。好きだったのはホンソメワケベラ。シュッとした容姿なのに、あんたちょっとは自分のことをやんなさいよと言いたくなるぐらい、いつも誰かしらのからだを掃除している。それから親指サイズのハコフグ。ひょっとこみたいな顔をしているフエヤッコダイ。アロワナもいたしオウムガイもいたしウミウシもコバンザメもいて、さながら海のない町にできた水族館だった。

つらかったのは、ときどき水槽ごと全滅させてしまうことだった。魚は水を換えたあとがいちばん死ぬ。そのたび、水が合わない、という言葉が浮かび、自分のようだと思った。水が合わないから笑えるできごとが見つけられない。山梨の学校は何もかもが違ってーーたぶんわたしが山梨を差別していたからーーちっとも馴染めず、東京の友だちからは何度も手紙が届いたけれども、薄曇りのなかで晴天の写真を見せつけられているような鬱屈とした日々がつづいた。

ただ、山梨にひっこしてからひとつ、いいことがあった。それは生まれてからずっと苦手だった「食べること」が、とてもじょうずにできるようになったことだ。

おそらくまず、空気がおいしかった。そしてお米がおいしかった。水もおいしかったし野菜もおいしかったんだと思う。それまでのわたしにとって食事は義務でしかなくて、お猪口いっぱい分のごはんがやっと、妹とふたりでも一人前を平らげるのが難しかったのに、とにかくよく食べた。

しかも山梨はなんでも東京より安い。600円も出せばめちゃくちゃおいしい揚げたてのとんかつ定食が食べられ、ラーメンは500円ぽっきり。お米も野菜も思う存分買えたし、果物が安いのも嬉しかった。熱帯魚屋が儲かろうが儲からなかろうが給料が出たから、お金の心配をしなくてよかったのも最高だった(っていうかそれが普通なんだけどダメ男と暮らすと普通のことが素晴らしいと思えるようになります)。

山梨でなにをいちばん食べたかなあ、と思い返してみたけど、やっぱりいちばん食べたのはお米かな。いつでも炊飯器に温かいごはんがあるようにセットしておいて、ちょっとでも暇だとそれを食べていた。それまでは、なんでこんな味のしないものをみんな食べるんだろうと思っていたのに、とにかくただ炊いただけの白いごはんがおいしくておいしくて、食べても食べてもおなかがすいて、マッチ棒みたいだったわたしはむくむくと太った。

炒めるだけとか焼くだけとかじゃない料理をしてみようと本を読みはじめたのもこのころのこと。豚汁のような筑前煮とか身がボロボロの煮魚とか、そんなのしかつくれなかったけれど、料理は楽しかった。肉の部位や鮭以外の魚の扱い方、たけのこのアク抜きの仕方などはぜんぶこの時期に覚え、父が連れてくる友だちにつまみを出すのがちょっとしたブームになった。

もっと郷土料理や山梨ならではの食材について学べばよかったなあ、と思うのは贅沢というもの。おいしいという感情を教えてくれた山梨に、今は感謝しかない。


つづく

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