自己不在
あり得ないだろう、と思う。事実、自我は強い。強すぎて疲れる。強すぎてもて余す。
けれど、今ふっと、その単語が浮かんだ。……わたしは、きっと、自分を少し手放したいのだと、思う。自己執着、全てに置いて、自分が、自分だったら、と言う、狭い視点しか持てないことが、もう、既に寂しい。
外の世界に出たかった。
でも、本の少し出てみたって、暖かい人たちから、暖かい言葉で突き放す気など全くない言葉で、わたしは突き放されていく。
そちらの視点に立って、それを共感したくても、それにはわたしが、一部分を、きっと捨てた方が楽な一部を、失わなくてはそちら側に立てない。何故かいつまでも、爪を立ててでも離さないくらいのイメージで、それをずっと持ったままだ。
変わりたい?
きっとわたしは「"変わりたくて""変わりたくない"」
二律背反なこの意思のままだから、わたしはいつまでも中身的な変化はなく、ぐずぐずと、過ごすのか……。
向かいたい場所、こうなりたいと言う理想像すら掲げられないわたしは、どこにもたどり着かないのだろう。
自分を、少し捨てて幸せになる。
自分を、少しも捨てないで、このまま、存在自体が後ろめたい感覚のまま、時間が過ぎる。
誰だって前者を選べるなら選んだ方がいいと、言い切れるこの二者択一に、迷いが生じるわたしはきっと、ただの馬鹿なのだろう。
体験したことがないことは、何だって怖い。未知だから。
そしてわたしはヒトよりずっとずっと怖がりだ。
だからわたしは、甘んじて、(ある程度だったり、限界なくらいだったりする、)淡い淡い空虚の中にぼんやり、存在し続ける。
"しあわせ"何て、知らないから、怖いから、まだいいや。
「まだ」が付く分、諦め切れず中途半端で。
けれどもきっと、いつまでも、
まだ、
まだ…
まだ、いいよ。
って。幸福から逃げ続ける自分が、見える気がする。
わたしはわたしをいつか捨てるだろうか?
失わずに幸福になる術は、やはり、無いのだろうか?
自己不在?
これは充分、自己執着だ。笑えるほどに。
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