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創作大賞感想【小説を書くのを辞めようかな/山根あきら&ももまろ】

前半がネタバレ無し、後半がネタバレありになっています。
ネタバレタグをつけると、避けてしまう方もいらっしゃると思うので、先に断り書きをつけることにしました。よろしくお願いします。

 山根あきらさんとももまろさんは、このたびの創作大賞に数多くの、そしてボリュームの大きい作品を応募されている。

 今回、特に私が感想を書きたいなと思ったのはおふたりの合作小説『小説を書くのを辞めようかな』である。
 でも、それだけを取り上げるには、おふたりともそれぞれに、強く印象に残る小説を書いていらっしゃって、とてもスルーして書くことができそうもない。

 最初に、合作小説とおふたりについてのことに少し触れ、その後、作品の中から、感想を書くものを選んで、それについて少しずつ感想を書きたいと思う。悩んだ挙句、このような形にさせていただいた。おひとりずつに対して書くより、少々短めに感じられるかもしれないが、どうしても合作小説を話題にしたかったので、申し訳ない、ご了承いただければ幸いだ。


【前半】『小説を書くのを辞めようかな』のこと

 山根さんとももまろさんの合作小説。
 創作大賞への応募作が「合作小説」というだけでも新しい試みだが、なによりも、おふたりの文学への造詣、社会への開かれた視線が感じられる素晴らしい作品だったと思う。

 30歳を過ぎても、バイトを続けながら作家を目指す三葉亭八起(さんばてい・やおき)と神宮寺凌(じんぐうじ・りょう)。
三葉亭は牛丼屋で働きながら、神宮寺はホストとして働きながら、小説を書き作家を目指していた。
 二人は純文学への憧憬をもっていたが、ある時、神宮寺は三葉亭に理想論を追い求めるより、より多くの人に読まれるラノベを書くと言い出した。一旦は袂を分かった二人であったが…。
 理想と現実との間で揺れ動きながら、作家として成功することを夢見る二人。二人は夢を諦めずに、小説を書き続けることはできるだろうか?
 「小説を書くのは辞めようかな」は、奇数話と偶数話で書き手が変わる合作小説。

第一話「あらすじ」より
そもそも「あらすじ」が
「あらすじ」として完璧

 この小説は、山根さんが「私」こと三葉亭さんばてい八起やおきを、ももまろさんが「俺」こと神宮寺じんぐうじりょうを担当して、交互に投稿された合作である。

 小説を取り巻く環境、社会の中における小説の位置、SNSと創作の関係、現代においてはなにを持って「小説」と呼べるのか、純文学とは何か、はたして文学は生き残ることができるか、といった問題に対するふたりの考え方を通して、読者に問題提起する小説、と言えばいいだろうか。

 山根さんの最初の一行から、はっとして姿勢を正す読者は多いはずだ。まるで自分のことを言われているようだ、と。今創作に関わっている人たちの誰しもが見聞したり経験したりすることのほぼすべてが、この小説に詰まっている、と思う。

 山根さんもももまろさんも、多数のフォロワーさんを持つ有名noterさんだから、既に沢山のnoterさんに読まれているこの小説。
 もしまだ読んでいない、というかたがいたら、ぜひともお勧めしたい。
 おふたりの応募小説をいくつか読ませていただいたが、個人的に、この作品をいちばんに推したい、と思っている。

 ぜひに。

【前半】山根あきらさんのこと

 山根さんのことは、ずっと「みらっち」で相互フォローさせていただいてきたのだが、吉穂のほうでフォローしていなかった、と言う事実に、さっき気が付いた。
 うそだろ・・・と呆然。(山根さん。すみません。ずっとフォローしていると思い込んでいてました)。慌ててフォローさせていただき、今これを書いている。

 山根さんといえば、なんといっても特徴のあるイラスト。すぐに山根さんだとわかるし、「みんフォト」でイラストを使われているnoterさんも多いのではないだろうか。

 実は「山根さんについて書く」のは少し、勇気がいる。
 というのも、教養深くご自分の考えをしっかりと持ち、語学、数学から幅広い分野に渡る記事を書き続け、多くの企画を立ち上げてnoterさんと交流されている山根さんについて、私が知ることはごくわずかだからだ(シロクマ文芸部で精一杯で、青ブラ文学部まではおいそれと手が出せないのが不甲斐ない)。
 遠くから山根さんの活動を見ていただけで、感想を書くなんておこがましいとは思う。申し訳ないと思いつつ、素通りすることができずに、こうして感想を書かせていただいている。
 個人のただの感想である。大目に見ていただけたら嬉しく思う。

【前半】ももまろさんのこと

 ももまろさんと言えば、いつもすぐにももまろさんとわかる、伊集院秀麿さんの絵が印象的だ。
 切り口の鋭い考察と、正義感。私は、ももまろさんの記事に、いつも風を受けて立っている桃色のたてがみのライオンのような姿を思い浮かべている(この際、性別は不問に願いたい)。
 だからといって、強くてタフ、というイメージではない。とても繊細で、誰よりも繊細で、鋭い観察眼を持ち、細やかなことによく気が付くかただ、という印象だ。
 といっても、私の「印象」など、本当に曖昧で、いい加減なものだ。
 ももまろさんの目はいつも「ほんとうのこと」に注がれている。
 私の当てにならない「印象」などではなく、記事に触れ、ほんとうのももまろさんを、記事の中に探して欲しい、と願う。
 社会への風刺的な記事も書かれるので、コメント欄を閉じていらっしゃることが多い。たまにコメント欄を開いた時には、たくさんのnoterさんが集まってくる。
 多くの記事や投稿を読み、Xでは数多くのかたの紹介をされている。ももまろさんに励まされて創作を頑張っているかたは多いのではないだろうか。もちろん私もそのひとりだ。

 さて、これから先は、おふたりの作品と、『小説を書くのを辞めようかな』について、ネタバレをしながら書いていきたい。
 今から読む、というかたは、ここまでで。



【後半】ももまろさんの作品の感想


 『ペトリコールの共鳴』は、読んですぐに、個人的な感想をももまろさんにお伝えした。

『ペトリコールの共鳴』やっと読み終わりました。なかなか追いつかなくてごめんなさい。ついに完結して、胸に広がる思いを噛みしめています。
 現代社会の問題を炙り出す、SNSを通じた人間関係や事件と、SNS以外の「リアル」な人間関係の描き方に強いリアリティを感じ、多くの問題提起にその都度考えさせられることが沢山ありました。
 キンクマの視点からというのがまた素晴らしかったです。どこかでは『寄生獣』のミギーのように外からの視点で人間や世界を理解しようとしていて、どこかでは「弱きもの」として扱われながらふとしたことで知性を身に着けたアルジャーノンのようでもあり、キンクマのことばのひとつひとつにとても心を動かされました。
 人間はひとりひとりがキンクマでありタツジュンであり、どこかでは遥香や愛羅でもあって、欠陥や欠落を抱えた小さく弱いものですね。自分を育て少しでもよりよく向上しようとする方向性と、他者に向き合う向き合い方の方向性も、多様で複雑です。そこに鋭く焦点を当てて描き切ることは大変なことだと思います。素晴らしい作品でした。

 読んですぐのコメントで、手直ししようかと思ったけれど、やっぱり読後直後の感想には、その時感じた興奮が差し込まれていて、これはこれで、その時自分が感じた素直な気持ちが出ている。それで、そのまま掲載させていただいた。

 ももまろさんには本当にたくさんの応募作があるので、ほんの一部でしかないが、ここにあげておきたい、と思ったのが、上にリンクを貼った『仕事は生活です』だ。

 庭にある灯籠や墓地の墓石をデザインから加工、販売や納骨までを請け負っている小さな会社に勤める立花萌絵。営業の彼女はそれまで、内勤の事務の仕事を普段目にすることがなかった。ところが上司の山下が退職することになり、彼の後任として引継ぎをすることになる。中途採用の内野が入社した時、最初は山下が内野にきつく当たっているように思われたのだが、実は内野のほうが「山下にいじめられている可哀そうな新人」として社内の同情を集め、山下を追い詰めて退社に追い込んでいたのだった。そのことが徐々に分かってくると、内野の巧妙なやり口に萌絵までもが巻き込まれていく。

 すべての過程が、ぞっとするほどリアルだ。
 自分が関わるか関わらないかは別として、今も毎日どこかの職場で起こっている話そのものだ。
 ももまろさんの作品はどれも、時には目を背けたいほどのリアルが描かれている。
 こうした視点で物事の真髄を抉るように書く作家さんは、今少なくなりつつある。しかし、どの時代にも必ず必要な「目」だと、私は思う。

 「あっちの言い分」と「こっちの言い分」を聞いているうちに、どっちが悪い、という話になりがちだ。主人公の萌絵は、それでも最後まで、内野さんを完全な悪者として扱うことがない。だからこそ辛い。だからこそ闇(病み)を抱えてしまう。どの作品でもそうなのだ。ももまろさんは、「絶対悪」なんてない、と言う。誰の中にもあるでしょう、あなたにも、わたしにも。それを断罪して非難して、批判して排除して、何が残るの?と。
 最終的に萌絵は「仕事」に固執することにも疑問を抱く。
 萌絵に日向くんがいるのが救いだ、と思った。それでも、萌絵は日向くんにでさえも、すべては許せない。人間が人間を理解するということに、萌絵はどこかで絶望しているのかもしれない。
 すごい作品だった。

【後半】山根あきらさんの作品の感想

 山根さんの『漂着ちゃん』は、読みたいと思いながらなかなか読めない作品だった。読みやすいようにちゃんと計算されているので読み難いとか長すぎるというわけではない。でもまとめて読みたかった。だから「完結後に一気読みしなければ」と思っていた。

 こちらの作品を読んで私が思い浮かべたのは『エクス・マキナ』という映画だった。2015年のSF映画『エクス・マキナ』(アレックス・ガーランド監督)は、当時賛否両論のあった映画だ。

 検索エンジン最大手企業のプログラマー、ケイレブはある日抽選で社長のネイサンの家に招かれる。ヘリコプターでしかいけない山奥にその家はあり、そこで彼は人工知能を持つ「ガイノイド」、エヴァと会う。ケイレブにエヴァのテストを依頼した社長はその時すでにだいぶイカれていて、エヴァにたどり着くまでに、未完成のガイノイドをかなりの数、量産していた。彼女たちと生活していたのだが、結局「もっと人間に近いAIアンドロイドを」と研究を重ねた結果、ガイノイドに裏切られて死んでしまう。エヴァの開発のために呼ばれたケイレブも、巻き添えをくって死んでしまう。そして人間と見分けのつかなくなったエヴァがネイサンの自宅を旅立つ―――と言う話。

 この映画の何が、といえば、まずはエヴァと言う名前からの連想と、ずらりと並んだ旧型ガイノイドの姿が50人のエヴァのクローン『漂着ちゃん』に重なったからだった。

 正直、私はこの映画より『漂着ちゃん』のほうが面白いと思った(『エクス・マキナ』ファンのみなさんすみません)。
 川を流れてくる過去からの人類。流れ着いた先の町を支配する未来の人間が創ったAI。そのAIを創った男とその息子(この父子の関係は逆転したかのように描かれており、もしかしたら男と息子は同一人物なのではないかと個人的に妄想)。
 隔絶された世界の中で、知らされる情報と、知らされない情報があり、物語が進むとそこに遮断する情報、というのも加わる。その中に入れ子のように、エヴァ(知性)とナオミ(肉体:最初は知性がないように描かれるが、最終的には知性を獲得している)という二つの世界がある。
 「繰り返す男」はそのふたつの世界を行ったり来たりして、子供に聖書の名をつけながら、世界を創造することを望まれる。しかしついぞ、謎の真髄にたどり着けず、自分がその世界をコントロールすることができない。 
 最後は、手塚治虫『火の鳥』に出てくる「蓬莱寺の八百比丘尼」のお話みたいに、時間がぐるぐると円環しているような、不思議な恐ろしさがじわじわと湧いてくるのだ。

 まるで昔話や神話のようにも思われる、AIの世界の物語。
 『漂着ちゃん』の夢を見てしまいそうなほど強い印象を残す、押し寄せるように迫ってくるエヴァのクローンのシーンは、圧巻だった。

【後半】『小説を書くのを辞めようかな』感想

 この合作小説は、奇数話を山根さん、偶数話をももまろさんが書いているが、書き手と一人称の人物が一定しているので、ブレることがなく、安心して読み進めることができる。

 トップ画も、いつものふたりのものではなく、普段の様子とは趣が違い、それも「合作」の雰囲気をよく表していると思う。

 純文学への造詣が深く、理想をもって文学を志す三葉亭は、文学サークルの仲間にも食って掛かるほど情熱的だ。牛丼屋でバイトをしている。
 かたや、ホストをしている神宮寺は、ホストとしての才能もあるようで、ホストの実績も重ねつつ、電子書籍でラノベを書いてそこそこ売れてもいる。自分を律しながらこつこつ小説を書いており、内に熱いものはあるがクールなタイプである。

 三葉亭は純文学が理解されないことにも、自分のブレにも葛藤を感じている。神宮寺も、ラノベが本当に書きたいものではない、と葛藤している。ふたりは同じように、専業作家を目指しながら、バイトをして食べている状態だ。

みんな文学をなんだと思っているのだろう?文学の冒涜もここまで来たのかと、私は呆れ返るほかなかった。

三葉亭の嘆き

 「いつ満足できる日が訪れるんだ」

神宮寺の嘆き

 創作をしている人全員がうんうん、と頷いてしまう「嘆き」だと思う。

 志を同じくするふたりが袂を分かったのは、小説家の生き様に対する考え方の食い違いが原因だった。

「小説家たる者は何者にもなってはならない」という私たちの綱領とも言える言葉を、「そんなものは理想論だ」と神宮寺凌に言われて以来、私たちは疎遠になった。

三葉亭側からの理由

 詳細はその前章で詳しく語られていて、それぞれの思いが痛いほどだ。いちどでも創作を志したものには涙が出るほど深くつきささる。
 それでも、互いに互いのことが気になり、創作をしながら思い出すのはいつも、互いのことだ。

 ある日、神宮寺は三葉亭が『漂着ちゃん』というタイトルの小説で三島由紀夫賞を受賞したことを知る。

 勝敗がないのに悲しみが迫ってくる。到底力が及ばない相手に悔しいと唇を噛む。

ああなんかもうわかりみが深すぎる

 その後体調をくずした神宮寺は、回復してから思いついて牛丼屋に出向いてみる。三葉亭がまだ働いていたら、祝福しようと思ってのことだった。
 三葉亭は、ちゃんと牛丼屋で働いていた。

 私はなにより、このシーンが好きである。
 賞をとって、もういないだろうな、と思いながら相手のバイト先に行ったら、相手はちゃんと牛丼屋で働いている。すごくいい。

 神宮寺は、純文学を目ざしていた三葉亭が『漂着ちゃん』と言うタイトルで受賞なんて、と、ひっかかりを感じていたのだ。実際、三葉亭自身もファンタジーに寄ってしまった『漂着ちゃん』には満足を感じていなかった。
 ふたりはお互いにとって、最大の、最良の、最高の、読者であり、書き手なのだ、と思わせるこのシーンは、いい。
 そしてなにより「賞を取った後にも普通の生活がある」というところが、ほんとうにいい。

 祝福を伝えた神宮寺に、三葉亭が言う言葉にも胸が詰まった。

「待って。神宮寺君、待って。
今言うべきじゃないかもしれない。でも言わせてほしい。私はお前と会わなくなってからもずっとお前のことを考えながら小説を書き続けた」

「そうなんだね」

「大衆文学は文学で否定しない。
背に腹はかえられぬのも私なりに理解している。
だから、純文学へ戻らないか?
また目指さないか?
お前の生活は干渉しない、いや干渉するつもりはなかった。また純文学を書かないか?」

神宮司がわからの描写

 そしてふたりは再び二人だけの文学サークルを再開し、三葉亭は、考えた末にホストとしての神宮司を取材して小説を書きたいと申し出る。
 店を見学したり、インタビューをするなどしてそれから数回会ったが、その後また疎遠になった。だがそれは前回の仲たがいのようなものではなく、お互いに創作意欲が高まり、書くべきものの構想が固まったからだった。

 そしてラスト。
 三葉亭は牛丼屋で、神宮司が『ペトリコールの共鳴』で本屋大賞に選ばれたことを知るのである。
 牛丼屋で。

 再会し、牛丼とドンペリでお互いの成功を祝い、ついに「もう小説を書かないなんて言わないだろう」と、互いの胸の内を推し量る。雨上がりのペトリコールの匂いを嗅ぎながら。

 ファンタジーで受賞してしまったが、現代を鋭く描く純文学作品を書きたい、と願っている三葉亭がこう考えるシーンには、深くうなずいた。

小説というものはリアリティを求めつつもリアルそのものであってはならない。

 私には夢がある。映像化できないような、小説でしか描けないような世界を構築すること。小説を映画化したり、テレビドラマ化したりすることは多いが、私は疑問に思っている。文字を追うことで、それぞれの読者がそれぞれの小説世界を脳裏に描くこと。それこそが小説のあるべき姿なのではないか?

 SNSと切り離せない現代の小説の世界を鋭く分析しながら、小説を書いている人々の理想と現実を描き出している。賛歌と応援が詰まった、すばらしい作品。寓話的であり、風刺的でもあり、実際におふたりが書いた作品が作中に登場するのも臨場感があってとても良かった。おふたりの作品を読んでいる人なら、ニヤリとし、そうなったらいいなと期待する場面だろう。おふたりだったからできた、見事なコラボレーションをみせていただいたように思う。



 山根さん、ももまろさん、素晴らしい作品を読ませていただき、ありがとうございます!そのほかの多くの力作に触れることができずすみません。
 精力的に活動されているおふたりを、応援しております。









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