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国民は不良債権である

このエッセーはフランス革命から加速主義に至るエッセイである。

フランス革命の成立で明らかになったのは、戦争=フランス軍が国家(教育、選挙、民主主義)の誕生の起源であれば、人民は常にその暴力に向き合う事になる。国家の元に推奨された技術=科学=産業は人民をモデル化=鋳型=モダン=近代化し(『大衆とは平均人である』オルテガ)、同じ欲望を抱かせる。しかしそこには階級=根拠はない。

ハンナ・アーレント「大衆社会とは部分社会がない社会である」
ブルジョアはブルジョアの価値観を、労働者は労働者の価値観を身につける。それぞれの信じるところに従って意見が出てきて対立がうまれ、それが政治的に扱われることになる。階級による棲み分けと文化、価値相違がフランス革命前までは担保されていた。

階級=根拠のある社会とは神=帰属性が存在する社会である。それが無い近代の人民は神の死と近代の誕生を見る事になる。近代産業=科学は根拠を奪い、ニヒリズムに人民を招く。消費社会はニヒリズムを下敷きにしている。潜在的ニヒリズムが無ければ消費社会は成り立たない。
ラカンを持ち出すまでもないが、欲望とはそもそも要らないものを欲する欲望の事で、消費活動とは欲しくないものを好んで買うニヒリズムである。しかし、それなしには人は社会的動物には成れないし、まして精神支障を来たしてしまうだろう。他人の欲望は自己形成上、不可避なのである。

何も信じていないから何でも信じる(ハンナ・アーレント)

科学は考えない(ハイデガー)

科学者は哲学を学ばなければならない。なぜなら科学者は、常に最悪の哲学を選択しがちだ(アルチュセール)

神がなければすべてが許される(ドストエフスキー)

民主主義=平等が国家の誕生を前提としているなら、まさに階級など打破すべきでもので、近代以降、選挙は階級闘争の道具であるかのように見えたが、近年、たった25%以下の支持率でも主権は取れることになる(通常50%近くが無投票であるから)。しかし民主主義というが国家を運営しているのは官僚でしかない。ましてすべての政策を吟味する能力も時間も人民にはない。それを人民の怠慢と言うのは見当違いで、国家自体が強力な官僚と言う暴力を必要することは、フランス革命以後、決められた事であろう。近代を待つまでもなく、中国の歴史を見れば分かるように、官僚=宦官の腐敗はデフォルトであり、国家が官僚無しに運営できない以上、民主主義の足元、選挙で政治家を選ぼうが、共産主義国家を人民が支持しようが、権力の舵取りをする官僚制がある限り、人民はその暴力に屈しなければならない。戦争以外にも国家は官僚という内部の暴力を抱えることになる。

戦争はかつては、貴族、武家の参加するもので、平民のやる事ではなっかた。それを変えたのがナポレオンであるが、平民の武装化が国家形成の上でもっも大切な部分であるが、それも核戦争>>ドローン戦争で人民軍は必要なくなる。そうすると国家にとって国民はお荷物でしかない。戦争という国民の大量消費が消えてしまっては、在庫整理ができない。国民は不良負債である。そして福祉、福祉と小うるさい人民をどうするか?そこで出てくるのが加速主義である。人民にドラッグとVRで人生を謳歌してもらう。すべての身体の痛みはオピオイド、精神の苦しみはメスカリン、食い物は1ドル以下で購入できる最高のグルメカップ・ヌードル、伴侶はVRの中で見つければいい。The Matrixの世界。現実世界には現実はない。

「現実界には亀裂はない」=現実界は構造も持たない(ラカン)。
現実はのっぺら棒になる。

この流れは止まらない。
アメリカでも若者のセックスレスが増大している。
セックスだけではなく、全ての社会的な営みは障害となる。最近始まった事ではない。都市の誕生自体が、人を共同体=村から切り離し、個人という消費者を作る空間として設計されたのだから。
反論として、田舎に行き農業をして身体性と自然を取り戻し、新たな共同体を作ろうと言う、いつものエコロジーが出てくるが、それは左翼運動のファンタジーでしかない。都市の生活もファンタジーなら田舎の暮らしもファンタジーである。ハリウッド映画を見れはファンタジー映画が全盛なのが納得いく。CGは単なる技術のではなく、国民という負債処理に発明された技術と言うプロパガンダである。プロパガンダと言えば映画もスポーツも近代のプロパガンダでしかなく、国民国家を高揚される為に発明されたと考えれば、VRに行き着くのは当然である。

国家を民主主義で救うことは出来ない。両方とも先に述べたように暴力機械あでるから、お互いに殺し合う事はあっても、助けることはない。国家が暴走すれば共産主義になり、民主主義が暴走すればファシズムになる。

では国家は誰のものか?誰のものでもない、資本主義が一度走りだしたら止まらないシステムのように、国家も一度起動したら止まらないシステムである。後戻りはできない。いくつかの会社が倒産し、いくつかの国が滅んだとしても、その運動は止まらない、人類が破滅するまで。

視点を変えれば、ホモサピエンスという種は生物界の中で繁栄を極め、地球を征服したのだから人類に文句を言う筋合いはない。

国家に出来ることはただ不良債権を増やすだけである。

解決策はない、大きな壊滅だけが救いであろう。

Many more will have to suffer
Many more will have to die
Don't ask me why
bob marley - natural mystic

アインシュタイン『いかなる問題も、それをつくりだした同じ意識によって解決することはできない』

<追記>
国家から見捨てられた国民はどうなるか?
外に対する暴力である国民軍は不必要になったが、内部の暴力である官僚はそのまま温存され、既得権益のポジションを必守することになる。国家を作るために動員した民主主義は、その時官僚には邪魔になり、独裁を望むようになる。その前に国民との対立はどのような形をとるのか?国民国家の成立で重要な一部に教育・学校・国語が上げられる、それはある民族をその国家の国民として創造する過程が含まれる。国民=ある民族は同じ言語を話し、同じ文化、価値観を共有する、「空気」もその一部である。国家から見捨てられた国民はこの民族的価値観へ傾倒するだろう。結論を急げば、イスラム教のカリフ制再興のようなアナーキーなものになる。無政府状態イコールテロリストではなく、国家という、たかだか200年で捏造されたシステムを抜け出すには、民族的、宗教的な熱狂と摂理が必要になる。価値観は保守的になり、前近代的な価値観が復興されるかもしれない。男尊女卑、年功序列とかグローバル主義者たちが眉を顰めるものが。居残った官僚がこの民族的・宗教的な前近代的復興に対抗するように(実際、彼らは主義主張などないのだが)グローバリズムに傾倒する。しかも新自由主義との相性も抜群に良い、自己責任、弱肉強食、自分のポジションを温存するための口実になる。アメリカのエリート大学は何代に渡ってその子孫を受け入れるシステムがある。エリート、官僚、政治家は固定されているのだ、その恵まれた地位を実力と勘違いし、上がってこれないものを自己責任として断罪する。
国家=官僚と国民の階級闘争が明らかになるだろうが、闘争は期待薄である。貧富の格差の拡大言うが、国民が国家から切り離された段階で確定しているのだ。国家=既得権益層は国民に餌をやる気はない。
面白いのは官僚は独裁を望むように、国民=民族も強力はリーダを求め独裁者を待望するだろう。官僚は頑強なシステム=AIを武器に独裁化し、国民はドグマ的な摂理に身を委ねる。両者は考える事を放棄する。国家形成の折、選挙=平等=民主主義というある意味、暴力の影に隠れた歴史の狡知を利用する事もなく。
或る意味、民主主義もその時捨てられたのであるし、国家権力というシステムにとってお荷物でしかない。安倍、トランプ、ボルソナーロという新自由主義者たちが当選するのも当然の流れである。


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