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Kang Tong Boy by YMO

仕事で行き詰った時は、YMO (イエロー∙マジック∙オーケストラ) のKang Tong Boyを 聴く。矢野顕子のソプラノがフワァ∼っ脳内に染みわたる。Kang Tong Boyはライブ録音のがいい。当時、彼女は教授(坂本龍一)と蜜月だった。恋する女の声って、こんなにも美しいんだ。それとも、恋なんて、しててもしてなくとも、矢野氏の声は、とにかく美しいのか。彼女の伸びーやかな声を聞いていると、私の心まで伸びやかになってくる。
 
当時、矢野顕子が恋してなかったら、高橋幸宏の英語が下手だったら、YMOは世界のYMOにはなっていなかったかもしれない。。
 
70年代に、音楽的に貧しい家庭に育った。黒柳徹子と久米宏の「ベストテン」で歌謡曲をきくのが家庭での唯一の音楽体験だった。
 
小学校を卒業した1982年の3月, 従姉がYMOの武道館ライブコンサートを録音したカセットテープを貸してくれた。
「なに、これ?」
(世の中には、こんなにもexciting な音楽があったのか?)
 
以来、YMO にどっぷりとはまった。なけなしの小遣いをはたいてアルバム(そう、そこのお若いあなた、なんのことか分かりますか?)を買った。カセットテープに録音して、朝から晩まで、ウォークマンで聴いた。
 
時は1982-1983年、中学に入って、私は友人Aと出会った。彼女もYMOが好きだった。私達は次第にYMOとコラボしている、イギリスのアーティストの音楽も聴くようになった。そこから、INROCK という洋楽専門誌を毎号熟読するようになり、INROCKで知ったブリティッシュロックを片っ端から聴いていった。Duran Duran, Siouxsie & the Banshees, Cure, Echo & the Bunnymen, Depeche Mode, Visageなどだ。英語の曲ばかり聴いているうちに、英語が得意になった。

クラスの女子たちの間では邦楽バンドのオフコースが流行っていた。私と友人Aは頑なにYMOと洋楽のみを聴き続けた。YMO は私達のロールモデルだった。彼らのような大人になりたかった。才能豊かで、音楽ができて、英語がしゃべれて。海外で外国人と並んでいても、YMOのメンバー達の方が断然カッコよかった。
 
中2の春(1983年)、教授が出演した映画「戦場のメリークリスマス」(大島渚監督作品)を友人Aと銀座(だったと思う)に観に行った。急に大人になった気分だった。彼女とは、まだ音信が続いている。42年前に出会った友人だ。
 
YMOは1983年に解散する。私が彼らの存在を知ってから1年後だった。活動期間はたったの5年。地球に流星のように現れて、流星のように去っていった。その3年後、日本にバブル経済が到来する。今振り返ると、YMOの人気と自信と成功は、好景気に酔う日本の未来を予見していたかのようにも思える。そのバブルも4, 5年で崩壊した。
 
去年(2023年)の1月、友人Aからメールが来た。
「幸宏(高橋)さんが亡くなりました」
その2ヶ月後に、教授も病死した。この時も私たちはメールを交わし合った。
「尊敬してた先生やアーティストが、この世から1人ずつ消えていくね」
「細野(晴臣)さんだけになっちゃったね」
と。
それだけ、私たちも歳をとったということか。
 
仕事中にKang Tong Boyを聴いていて、友人Aに思いをはせた。
メールで、
「今、Kang Tong Boy聴いてるよ」
と、送った。
返事がきた。
「私はSolid State Survivor を聴いてる」

一緒に育った友達は、何者にも代えがたい。
 

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