ばか正直で似たもの同士だった恋人のこと
「ソラ君って今何してんの?」
指先でトントンと灰を落とし、真奈が言う。
「知らない。あの学年の人、誰とも連絡とってないし」
「facebookで検索したりしない?」
「したことない」
真奈は上を向いておかしそうに笑い、「女は上書き保存って言うけどさ、あんたはまさしく女だねー」と言った。
神田のタイ料理屋。二階の席にいるのは私たちだけだ。
「真奈は思い出すの? あのとき付き合ってた人、えーと……」
「思い出す。幸せにしてるかなーって。私、幸せにしてやれなかったから」
驚いた。二十歳かそこらで、真奈はそこまで相手の幸せに責任を持っていたのか。
「えらいな。私なんて自分のことしか考えてなかった。今思えばさ、自分さえ幸せになれれば相手は誰でもよかったんだよ。私もソラ君も」
そうなんだろうと、今なら思う。
けれどあのときは大好きだった。意地悪そうな唇や、細くてさらさらの(でもさわると案外かたい)髪の毛、浅く線の入った薄いまぶた。
好きで好きで、気がふれるかと思った。
それなのに、一緒にいると苦しかった。
◇
中庭のテーブルでひとり、お弁当を広げていた。
東京の学校に入学して数週間。一緒にランチを食べる人たちはいたけれど、地方から出てきた私はみんなのノリに少し疲れて、その日はひとりで食べたい気分だった。
質素なお弁当をつついていると、まるで「東京」を具現化したような、お洒落で可愛らしい男の子に声をかけられた。
「僕はソラ。君は?」
びっくりした。
今まで私の周りにいた男の子たちは、みんな一人称が「俺」だった。「僕」なんて言う人、テレビでしか見たことがない。「君」と呼ばれるのもはじめてだ。
こんな吉本ばななの小説みたいな男の子、現実にいるんだ……。
ソラ君は3年生で、高等科からこの学校にいるという。小柄で、色が白くて肌がすべすべで、大きなヘッドフォンを首にかけていた。ちょっとオザケンぽいな。
小学生のときからオザケンが好きな私は、このときからもう、ソラ君が気になっていたのかもしれない。
だから、好きな音楽を聞かれたときはドキドキしながら「オザケンとか……」と答えた。ソラ君は「ほんと? 僕も好き!」と、嬉しそうに食いついてきた。
そこからどんな話をしたのかは覚えていない。ただ、とても楽しかった。
住んでいるところを聞かれて「横浜」と答えたら、「僕、中華街行ってみたいんだ。次の週末行かない?」と言われ、メールアドレスを交換した。
◇
中華街に行く前日、授業が休講になった。ソラ君も同じ授業を取っていて、暇だからと、一緒に公園に行くことになった。
狭い道路を歩いていると、後ろから車が来た。ソラ君は私の手を取り、「危ないからこっち側歩いて」と、自分が車道側を歩いた。
なんだか気恥ずかしい。マナーとしてよく聞くけれど、今までこんなふうに扱われたことがないから。ソラ君は慣れている感じがして、嬉しいのに胸がざわついた。
都心の公園は思っていたよりずっと緑豊かだった。新緑の中、ベンチに腰掛けて話をする。会話は途切れることがなくて、この時間がずっと続いてほしいと思うほど楽しかった。
そろそろ学校に戻らなきゃというとき、ソラ君が「好きだよ」と言ってくれた。
驚いたし、そう言われるような気もしていた。
◇
女の子に慣れてそうに見えたソラ君は、意外なことに、私がはじめての恋人だった。
「僕はわがままだから、今まで恋をできなかったんだ。神様がやっと、恋をしていいって言ってくれたんだよ」
ソラ君はやっぱり少し変わっていて、ふつうの男の子が絶対に言わないようなことを言うのだった。
毎日一緒にいるのに、電話越しに声を聴くと会いたくなる。姿を見つけると、全身がふわふわする。
こんなに好きでどうしよう、と思う。この溢れる気持ちをどこかに吐き出さないと身が持たない。好きすぎて気が変になりそうだった。
とは言え、私は無批判にソラ君を愛していたわけではない。
彼は幼稚でダメな人だった。
アートと音楽を愛好していたけれど、芸術系の学校にいながら、自分では何も生み出さない。そのくせ、他者の批判だけはいっぱしだ。
自分のセンスに自信があり、流行のJ-POPを聴く人を、「コンビニに並んでるような量産型の安っぽいセンス」とバカにする。地に足つけて地道に生きる人を「つまらない」と言い、かと言って夢があるわけでもない。社会に適応できるような器用さや、我慢強さもなかった。
私は付き合って1ヶ月も経たないうちに、彼のダメさに気づいた。
気づいたうえで、大好きだった。一緒にいるとイライラするし、「なんだこいつ」と思うのに、嫌いになれない。どうしても好きなのだ。
ソラ君との恋愛はジェットコースターみたいで、毎日気持ちがぐるんぐるんする。
けれど、彼に振り回されるのと同じくらい、私も彼を振り回していた。なんのことはない、似たもの同士だったのだ。
なぜ私を好きになってくれたのか、ソラ君に聞いてみたことがある。
彼は悪びれず言った。
「君が、僕とよく似た女の子だから」
なんてばか正直なんだろう。
彼は、自分のことだけが好きだった。たぶん私も。
◇
別れは突然やってきた。
ある月曜の朝、学校に行くとソラ君が神妙な表情で待っていた。嫌な予感がする。週末、電話をしても出ないし、メールも返信がなかったから。
はじめて出会った中庭で、「別れてほしい」と言われた。土曜の飲み会で、ほかに好きな人ができたと言う。
全身の血が凍るようだった。
震える声で「浮気したの?」と言うと、「浮気じゃなくて本気だよ。今は○○ちゃんと付き合ってる」と言われた。
ばか正直に余計なことを言ってしまう、別れ話の慣れてなさ。こいつ、本当にダメだな。
その日は放課後、学校の近くのロッテリアで泣き通しだった。ハンカチを持っていなかった私に、友人の真奈がハンカチを貸してくれた。
その数日後は私の二十歳の誕生日で、真奈からのプレゼントはアナスイのハンカチだった。
「二十歳の涙はこれで拭きな」と言われ、「真奈かっこよすぎー!」と笑いながら、もう二度と失恋したくないと思った。
◇
あれから15年が経った。その間私は懲りずにいくつかの恋愛をし、今は結婚している。真奈とは相変わらず仲がいい。
「ソラ君にさ、幸せになっててほしい?」
真奈が、何本目かわからない煙草に火をつけながら言う。
「うーん……」
考えたこともなかった。あんなに好きだったはずなのに、私はソラ君の苗字も誕生日も思い出せない。
「……幸せであるに越したことはないかな。幸せであってほしいって、強く祈ることはないけど」
真奈は「正直だね」と笑う。
そうだね。
私もソラ君も、ばか正直なところがよく似ていた。
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