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言うことと、言わないことを選ぶ

私はエッセイを書くのが仕事で、よく「赤裸々に書いてますね」と言われる。

けれど、思ったことをなんでもかんでも書いているわけではない。思っても、あえて書かないことは多い。

「言うことと言わないことを自分の意思で取捨選択できる」って、人間に備わっているすごく便利な機能だと思う。

だから、その機能は積極的に使っていきたい。

仕事でもプライベートでも、ネットでもリアルでも、発言する前に「これは言うべきことか?」と自分に問いかけたい。どうしても伝えたいことか? 言わないほうがいいんじゃないの?

一度口に出してしまった言葉は、なかったことにはできない。余計なことを言ってしまって、「言わなきゃよかった~」と後悔をするのは嫌だから。

クソリプを見て思うこと

以前、有名人の自撮りに「ブスのくせに調子乗るな」とリプライしている人がいた。

それを見て、「これを書いたのはどんな人なんだろう?」と興味が湧いた。

嫌味に聞こえるかもしれないけれど、私は他人の写真に悪態をつきたくなったことがない。なので、わざわざそれを言う心理に興味がある。

その人のツイートを遡って読んでみると、あらゆるものごとに悪態をついていた。おぉ……。

SNSで他人を罵倒する理由としては、

・ストレス発散説
・マウント取りたい説
・かまってほしい説
・嫉妬説

あたりがよく挙げられる。

しかし、本人は、自分が悪口を言う(言わずにいられない)理由を自覚しているのだろうか? もしかしたら、本人にも理由はわからないのかもしれない。

ただ、クソリプする人は、「自分の意思で言うことを選んだ」という意識が希薄なんじゃないか。

「思う」と「言う」は別物だ。

「思う」は反射的に心に浮かんでくる感情で、ときに自分でも制御できない。一方、「言う」は、基本的には自分の意思でコントロールできる。

人はなにかを思ったとき、それを言うか言わないか瞬時のうちに考え、判断する。

しかしクソリプをする人は、言うか言わないかを逡巡する間もなく、反射的にツイートしているのでは。


自ら「サトラレ」になってる人

私自身、Twitterに慣れるにつれて、息をするようにツイートしていることがある。「寒い」とか「お腹すいた」とか、無意識のうちに垂れ流してしまっている。

仕事で文章を書くときや、誰かを前に言葉を発するときに比べて、Twitterは「自分の意思でその発言を選択している」自覚が希薄になりがちだ。

よくないぞ、と自分を戒める。SNSでもリアルでも、衝動に支配されるような生き方はしたくない。自分の手綱は、自分で握りたい。

もしも人間の脳とSNSが直結して、思ったことがすべて自動的に投稿される世界になったらどうなるだろう?

……とSF的な想像をしてみて、ゾッとした。

内心で「嫌いだな」と思っていることが相手にバレる。みんな心の中がダダ漏れだから、あちこちで争いが起きて秩序がめちゃくちゃになりそう。

そういえば昔、『サトラレ』というドラマを見た(原作は漫画で、映画にもなっている)。思考がすべて周囲にバレてしまう症状「サトラレ」を持つ人の話だ。

当時、私は心底「自分がサトラレだったらどうしよう……」と怯えた。周囲にも、このドラマがトラウマになったと話す人がけっこういる。みんな、他人に心を読まれたくないのだ。

なのに今、自ら(ネット限定の)サトラレになっている人もいるのではないか。

心を読まれるのは嫌なのに、自らSNSに心を晒してしまう。言おうか言うまいか逡巡する一瞬の間もなく、衝動的に。


「食べたいから」とよその家の林檎を食べちゃう

ネットサトラレが増えているとして、その原因はなんだろう?

よくある言説としては「スマホの普及により忍耐力が低下してる説」がある。

スマホのおかげで、昔より簡単に欲を満たせるようになった。Amazonでポチったらすぐに欲しいものが届くし、ゲームや動画で退屈を埋められるし、SNSでコミュニケーション欲も満たせる。便利さに慣れて堪え性がなくなり、「言いたい欲」も我慢できなくなったのでは。

欲を制御できないって、人間として重大な欠陥だ。

友人と田舎を歩いていたとき、ある民家の土地に林檎の木がたくさん植わっていた。木には美味しそうな林檎が実り、歩道から手を伸ばせば届いてしまう。私は「これ、盗まれることないのかな?」と言った。すると友人はふざけて「勝手に食べていいんじゃん? 手の届くところにあるんだし」と応えた。

もちろん、友人はそんなことしない。冗談で言っているだけだ。でも、そういう人いるよね。「食べたいから」という理由で、よその家の林檎を食べちゃう人。

「自分が言いたいから」という理由で人を傷つける発言をする人も、それに似ているのではないか。倫理よりも「言いたい欲」が勝ってしまうのだ。


「何を喋れるかが知性で、何を喋らないかが品性」

衝動的に発言しないよう気をつける。

そう聞くと、息苦しく感じる人もいるかもしれない。「配慮ばかりしていたらなにも言えなくなる」といった声も、たまに耳にする。

しかし、衝動的に発言しないことは、相手のためばかりではなく自分を守ることにもつながる。口は災いのもとと言うけれど、不用意な発言で「しくじる」ことがなくなれば、そのぶん生きやすくなるだろう。

これは、「言いたいことを言わずに飲み込め」という話ではない。むしろ逆だ。

人には、どうしても主張したい(しなければいけない)ときがある。普段から信頼に足る発言をしていれば、ここぞというとき、発言を聞いてもらいやすくなる

以前、スピードワゴンの小沢さんが「何を喋れるかが知性で、何を喋らないかが品性だと思う」と言っていた。

本当にそうだよなぁ。

言ったことばかり注目されがちだけれど、人はそれぞれ心の中に「思ったけど言わなかったこと」を持っていて、その量も内容もさまざまだ。そこには、まさしくその人の品性が表れるだろう。

どんな品性を持つか。つまりは、どういう自分でありたいか。

衝動的に発言する自分か。それとも、相手がどう思うかを想像し、思慮深く言葉を選ぶ(あるいは言わないことを選ぶ)自分か。

私は、後者でありたい。品性に自信のある人間じゃないからこそ、意識して自分を律したい。

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