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面白いことを書ける人は、面白いことを「思って」いる

小説にしろエッセイにしろ、面白い作品を書く人は文章力が優れている。

だけど、それだけじゃない。

面白いことを書く人は、面白いことを「思って」いる。日常の中で何かを感じるときの感じ方が、すでに面白いのだ。

そういう人を見ると、いいなぁ、と思う。

同じ場面に遭遇しても、それについて「思う」ことは人それぞれ違う。

誰もが思いつくような平凡なことしか思えない人間と、「その発想はなかった……!」と驚かされるようなことを思う人間がいる。

私は前者だ。

私だって、インプットとアウトプットをたくさん繰り返せば、文章力は向上するだろう。

だけど、何かを「思う」スキルは磨き方がわからない。

◇◇◇

歌人の穂村弘が好きだ。

短歌ももちろん好きだが、エッセイも好きだ。

穂村弘は文章が上手い。だけど、彼のエッセイの面白さはその「上手さ」ではなく、穂村弘という人間の感性にある。

たとえば、エッセイ集「世界音痴」に出てくる「15年住んでいる部屋の窓を一度も開けたことがなく、遊びに来た友人が開けたことに衝撃を受けた」というエピソード。

その部屋に窓があることは知っていた(十五年も住んでいるのだから当たり前だ)。(中略)それでも、一度も、窓を開けてみようとは思わなかったのである。
なぜ一度もそう思わなかったのか、と訊かれても答えることができない。(中略)思いつかなかったのとも微妙に違う。強いて云うなら、私は窓から「隔てられて」いたのだ。窓が開いたその光景は「お前は人間外のものだ」という宣告のように見えた。

(出典:再び、世界音痴)

「15年住んでいる部屋の窓を一度も開けたことがない」時点で、なんだかすごい。敵わない。

けれど、穂村弘はそれを『窓から「隔てられて」いた』と感じる。

この「感じ方」がすごい。

私だったら、同じ状況でもそんなふうには感じられないだろう(そもそも同じ状況になることもないが)。


他にも、こんなエッセイがある。

点滴をしているときに、残りの液体が少なくなってきて、「液体がなくなったら血管に空気が入ってきて死んでしまうのでは?」と不安になる。

いよいよ点滴がなくなるとき、看護婦さんを呼ぼうと思うのに、呼べない。

なぜ声が出ないのか。羞恥心か、怠惰か、楽天性か、他者に呼びかけることへの恐怖か。どうもそれらがすべて混ざった強力な呪縛のようなものが私の裡にあるらしいのだ。

そして、唐突に「散歩が好きだ」という話になる。

唐突な云い方になるが、私には、こんなにも散歩が楽しいことと、先の点滴で看護婦さんが呼べなかったことの間に、何か関連があるように思えてならない。

(出典:この世に「ない」もの)

なぜ!

なぜそこで「関連がある」と思うのか? 読者に納得のいくような答えは書かれない。

これはもう、「穂村弘だから」としか言いようがないのではないか。

なぜかはわからないけど、そう思っちゃうのだ。それが、穂村弘の感性なのだ。


またあるときは、サプリメントと自己啓発本を買い漁ることを知人に「末期的日本人って感じだねぇ」と評される。

穂村弘は、サプリメントと自己啓発本によって「もっと素敵な人になりたい」と願う。

そして、こう思う。

最後の拠り所であった恋愛に熱中できなくなってからの私には、もう<私>しか熱中するものがない。今の私の日常生活は、人間が「自分かわいさ」を極限まで突き詰めるとどうなるか、という人体実験をしているようなものだと思う。

(出典:ビタミン小僧)

こんなふうに「思う」人はなかなかいないと思う。

「これほどの自己愛を持っている人はめずらしい」とか、「これほどの自己愛を持っている人はいるけど、ここまで自覚的であることはめずらしい」とか、そういうことだけでもない。

この場面でこのように思う穂村弘の感性は、「鋭い」とか「めずらしい」だけではなく、「愛しい」のだ。

少なくとも、私にとっては。

◇◇◇

おこがましいが、私でも時間をかけて研究すれば、穂村弘の文体は真似できるだろう。

だけど、感性は真似できない。私は私だから、私のようにしか思えないのだ。

話は変わるが、昨日、八百屋に行った。はじめて入る店だ。

その薄暗くてひんやりとした店内を歩いていると、胸がしめつけられるような切なさを感じた。

なんでだろう? と考えて、夫と同棲していたときに通った八百屋に似ているからだ、と思い至る。単純に、懐かしかったのだ。

なんていうか、普通だなぁ、と思う。

昔よく行った場所を思い出して、その懐かしさが切なさに変わる。それは、とてもありふれた感情の動きだ。

穂村弘なら、はじめて入る八百屋で何を感じるんだろう?

もっと多くのことを感じるんだろうか。私が思いもつかないような面白いことを思うのかもしれない。

あぁ。一時間くらい、穂村弘と脳みそを交換して過ごしてみたい。

穂村弘の脳みそを持った私は、日常に何を思うのだろう?


私は、野菜や店内、店員さんやお客さんをじっくり観察してみた。そして、何を思うか、自分の心を観察してみる。

一玉198円になった白菜を見て、「浅漬けにして桃屋のキムチの素かけて食べたいなぁ」と思う。何かを食べたいと思うのは久しぶりで、そう思えるようになったことが嬉しい。

大声で蕗を勧めてくる店員のお姉さんは、モンベルのキャップをかぶっている。お姉さんはいきいきとしていて、その生命力が眩しい。いいなぁ、と思う。私も「山小屋のお姉さん」だったときはこんなふうに見えていたんだろうか、と思う。

よしよし。少しは色々なことを思えるようになってきたぞ。

面白い視点とか、面白い発想ではないけど、何も思わないよりはいい。

◇◇◇

何かを「思う」スキルは磨き方がわからない。

だからとりあえず、自分の気持ちを注意深く観察してみる。

そうすることで、少しずつ感性が磨かれていくことを祈りながら。

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