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【ショートショート】道極水

次に何を飲もうかとメニューを眺めていると思わず目を見張った。
「こ、…このミネラルウォーター1杯でこの値段ですか?」
そこには1杯1万3千円と表記されてあった。
ふらっと入ったバーでマスターも人の良さそうな印象だったのだが、よもやぼったくりのソレなのかと身構えた。
今自分が飲んでいるウイスキーも含め、他のドリンクメニューは至って一般的な価格帯なので一先ず安堵する。
マスターは冷蔵ショーケースから美しい藍色のボトルを取り出しバーカウンターに置いた。
「日本では流通していないフランス産の非常に希少な品物なんです。海外の知人から特別に分けてもらって直輸入している形なのでどうしてもその値段に」
どうです飲まれますかという表情で瓶を傾ける。
「いやいや、流石にそれは遠慮しときます」と慌てて手を振るとマスターは嫌味の無い無言の笑顔を返した。
もちろんこっちが冷やかしで興味を示しているのを分かってのパフォーマンスだ。
しかし改めてメニューを見るとミネラルウォーターの品揃えが多い。「マスターは水にこだわっておられるんですね」
ボトルをしまいケースの扉を締めると
「私、凝り性な癖に移り気なんです。この前はジンにハマっていたんですが
初心にかえったのか、行き着く所まで行き着いたのか何故か今は水なんですよ」自嘲気味に答えた。
「確かにバーが水を推すのも変な感じですよね。でも流石にコレだけ種類があると少し興味が湧いてきましたよ」
あながち社交辞令でもなかった。
「本当ですか。実は昨日手に入ったばかりでまだメニューには載せていないとっておきの水があるんですよ」
そう言うとマスターは何もラベルの貼られていない質素なガラス瓶を取り出した。
「何というか…ソーダ水でも入っていそうな瓶ですね」
「『道極水』という代物です。これも知人の紹介で入手出来たのですが、正直感銘を受けました。これをご覧になってください」
マスターは1枚の紙を差し出す。どうやらこの水の販促用チラシのようだ。
「どうきょくすい…」
私は無意識に呟きそこに書かれている説明文を目で追った。
『本来、水が持つモチベーションと向上心を極限まで高める事に見事成功する事を夢みました。
100%国産原料にこだわり厳選した生産者のみと契約することで安定した高品質の実現が可能となりました。
水の意識を極限まで高めた事により、まるで水自身が最新フラッグシップモデルのノートパソコンを小脇に抱え
オープンテラスのカフェに出向いてしまったような景色が目に浮かんだとの嬉しいお声が届いております。
水を語らせたら水を差す物は居ないとされる自称第一人者のパルメザン正幸氏に「無味無臭の向う側にある光を垣間見てしまった」と言わしめました。
剣の道を剣道、華の道を華道と言うようにまさに【水の道】を極めた究極の水を是非ご賞味ください』
「…1杯、いくらなんですか?」「今日は特別に2千円でサービスさせて頂きます」


水をひとくち口に含むと、グラスを静かにテーブルに置く。
「で?結局その水飲んだの?」
私は昨日あった出来事を話し終えると同僚は続きを促した。
昼休みに訪れた喫茶店は混み合っていた。
「まさか。飲まないよ」私もお冷に口を付けると頭を振った。
「俺ならちょっと興味本位で試してたかもなぁ」
「冷静になって考えろよ、1万以上の値段の後でも水に2千円は高すぎるだろ」
「分かるけど、でもその味の違いを感じてみたくないか」
「バカだなぁ。そんなに飲みたいのか?『道極水』を」
「そうだな。話のネタにもなるから俺なら有りかもしれないな」
「まったく…。良いこと教えてやろうか、お前もう飲んでるぞ。道極水」
「はぁ?どういう事だ」
「【水の道】を極めた水だ」
「…あ」理解した同僚と顔を見合わせて思わず吹き出した。
「とんだ曲者のマスターだな。見かけによらず人を騙そうとするなんて」
「いや、きっとマスターは騙してないよ。むしろマスターの方が騙されてるんだ」
人の良さそうなマスターの顔が脳裏に蘇った。

「【水の道】を極めた水…それすなわち」
そう呟くと同僚はグラスに注がれた水道水を口に運んだ。

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