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補講4:中国周辺の異民族史

スキタイ(前6世紀前後)

→ユーラシア大陸の騎馬民族として最初に登場する民族。イラン系の人々で黒海北岸~カスピ海北岸地域を中心に活動。古代ギリシアとか春秋戦国時代と同じ時期。

スキタイ文化
金、青銅、鉄器などを扱う高度な文化。首長の墓(クルガン)には数多の金製品が副葬されている。

動物意匠金属器
何度も再生する角を持つことから縁起物として鹿モチーフにしたものが多い

●黄金人間の尖り帽子
→アケメネス朝ペルシア(前550年~前330年)の碑文やヘロドトスの記述にあったもの。1969年にカザフスタン南部の遺跡から発見。

「黄金人間」レプリカ

◎ヘロドトスによる記述
→『歴史』の中でスキタイについて記述。スキタイは文字文化を持たないため他国の歴史書から紐解く。「最初に倒した敵の血を飲む」などかなり野蛮に描かれている。

匈奴(前4世紀~後93)

匈奴の支配領域

→スキタイの影響を受けて騎馬遊牧文化を育んだ。

 匈奴は中華諸国などに進出しては土地を略奪する北方騎馬民族であり、中華諸国にとっては対応がわからず、長年の悩みの種であった。各国は馬が越えられない壁(長城)を築き、中華を統一した秦の始皇帝はそれをつなげて長大な万里の長城を築いた。これにより匈奴は中華諸国への侵入が難しくなり、更に始皇帝は蒙恬に命じて匈奴討伐の軍を出したため、その勢力は大幅に後退。同じく北方騎馬民族だが違う部族である西の月氏、東の東胡に圧迫されるようになっていた。

冒頓単于(位前209~前174)
→匈奴の全盛期を築く。単于は匈奴を初めとした北アジア遊牧国家の初期の君主号。
匈奴帝国
→項羽と劉邦が争っている間に勢力を盛り返し、東の「東胡」と西の「月氏」を征服して帝国化。(この東胡から鮮卑や柔然に派生する)

●vs高祖(前漢,前200)
→平城で戦って前漢が敗北。漢宗室の女性を公主(天子の娘)として単于の妻とし、毎年一定の贈り物を匈奴の王に贈るという屈辱的な和を結んでいる。それ以降漢と匈奴帝国は対等な外交関係をとることとなった。

●vs武帝(前漢)
→対匈奴強攻策に出て、前129年以来、衛青霍去病らの諸将軍に大軍をつけて討伐軍を送り、匈奴を圧迫し、西域に進出した。また匈奴を挟撃する目的で張騫を大月氏国に派遣した。この武帝によるたび重なる討伐を受けたため、匈奴は次第に衰退し、紀元後1世紀頃には東西に分裂する。

東西分裂期
東匈奴(内モンゴル)
→漢に服属し生き延びる。
西匈奴(天山山脈)
→漢に敗れて滅亡。

東匈奴の南北分裂と易姓革命(48)
→漢王朝は冊封体制をとり、周辺国の君主の王号を認めていたが、前漢に代わって新王朝を建てた王莽は異民族の君主をすべて王から侯に格下げした。匈奴の単于に対しては、それまで「匈奴単于璽」の印綬を与え、単于の号を王よりも上位としていたのが、王莽は「新匈奴単于章」と改め、国号の新を加え、国璽ではなく単なる印章としてしまった。匈奴の単于は強く反発してそれまでの和親を破り、西域諸国に侵攻するようになり、西域諸国の中にもそれに同調するものもあらわれた。
 王莽の新に代わった後漢の光武帝は和親の回復を求めたが、匈奴は応じようとせず対立。ところが、匈奴側に内部分裂が起こり、後漢に有利に展開することとなった。単于位をめぐる争いが生じ、日逐王比という者が単于になれないことを不満として年に後漢王朝に降伏してきたのだった。これによって匈奴は南北に分裂し、南匈奴は後漢の庇護を受け、北匈奴は対立することとなる。

→この後北匈奴は南匈奴に攻撃されヨーロッパ方面へ侵入。これがフン人であるという説でている。

五胡十六国時代の南匈奴
 南匈奴は後漢の支配のもと山西省各地で部族ごとに生活していたが、魏の曹操がこの地を制圧。3世紀末、晋で八王の乱が起こると匈奴はその軍事力を利用されるようになった。匈奴の自主性回復の好機と捉えた劉淵は匈奴の兵を結集して、304年、漢王を称して独立し(漢王を称したのは、東晋に奪われた漢王朝を復活させることを標榜したため)、山西で建国、漢の高祖を名乗った。これが五胡十六国時代の幕開けとなった。


北方民族(胡人)が華北に国を建てたといっても、この時期に移住して征服活動をしたのではなく、ほとんどはそれ以前の漢代(前漢・後漢)・三国(華北の魏)・西晋を通じで移住し、漢人社会に溶け込みながら、騎馬兵力として漢人政権の傭兵化していた人々である。彼らが西晋の混乱を背景に政治的に自立したが、まだ統一的な権力になり得ず、互いに抗争した、というのが五胡十六国の分立の意味である。

鮮卑(2~5世紀)

→北方系遊牧民の五胡の一つ拓跋氏が有力となり4世紀末に北魏を建国し439年には華北を統一した。鮮卑は民族としては次第に漢民族に同化した。

拓跋氏
北魏を建国(386)
●カガン(可汗)の称号を使用。
→内陸アジアの遊牧国家で用いられた称号。ハンの称号はここがもとになっている。

太武帝 (位423〜452)
→華北の統一 (439)
柔然 (モンゴル高原) との対立
→北方異民族。最終的には北魏に従属。

北魏はこの後積極的な漢化政策を進めたので、民族的にも漢民族に同化し、独自性を消失し、現在はその姿を留めていない

北魏に関しては下のnoteから

柔然(5~6世紀)

→王は可汗を称す。北魏の北方にあって抗争したが、449年に太武帝に討たれてから衰え、552年、突厥に滅ぼされる。

柔然の最大図版(5世紀)

→北魏との抗争中、支配下にあった高車や突厥が自立。高車の反乱は治めたもののそれに乗じて、鍛鉄奴隷とみなされていた従属部族の突厥が隆盛し、552年、突厥の伊利可汗との戦闘に敗れて柔然は完全に滅亡した。

なお、アヴァール族は柔然の一派ではないかとの説がある。

突厥(6~8世紀)

突厥の最大図版。隋の建国(581)より少し前。

 はじめ柔然に従属していたが、6世紀中頃にアルタイ山脈西南地方のセレンガ川流域を中心に部族を統合し、優秀な鉄器を生産するようになり、552年に柔然を破って独立した。

第一可汗国(552~630)
→華北では北魏が東西分裂(534)し、東魏・西魏の対立から北斉・北周への争いへと続くなか、漁夫の利を占める形で突厥は勢力を伸ばした。
 また、突厥はトルコ系であり、現代のトルコにおいてもトルコの建国は突厥建国の552年となっている。位置的には現在のトルコからかなり遠いが、トルコ系として最初の独自の文字「突厥文字」をもったことなどからトルコ民族史の栄光の時代とされている。


●vsエフタル(559ごろ)
→ササン朝のホスロー1世と組んでエフタルを滅ぼす。
この時、ササン朝に中国の絹の市場を開こうとしたが、拒否されたためビザンツ帝国(ユスティニアヌス帝の時代)と結び、中国の絹を直接売り込むのに成功。突厥帝国の保護を受けて、東西交易にあたったのがソグド人の商人。(安史の乱の安禄山もイラン系ソグド人)

●東西分裂(583)
→帝位である大可汗は、地位相続の明確な規定がなかったためディザブロス(エフタル滅ぼした人)の子が独立して可汗を称し、西突厥を成立させ、帝国は東西に分裂。

※中国では北周に代わってが581年に華北を統一、その文帝(楊堅)は突厥に対する攻勢に転じ、東西に分裂して弱体化した東突厥を圧倒。さらに軍を南方に転じ、589年に南朝の陳を滅ぼして中国を統一。

東突厥の支配領域

●東突厥と中国の関係
→この時モンゴル高原を支配。煬帝が高句麗遠征など(612)で国力を消費し隋が衰退。これに乗じて東突厥は勢いを取り戻す。

 この東突厥とは友好関係を維持し、しかもその兵力の支援を受ける必要があった。そこで、実際、隋との戦いでは唐は突厥の騎兵の援軍によって勝利を得ることが出来た

●vs大宗(李世民,630)
→ 東突厥の頡利可汗は唐を属国視し、物資の上納を要求し、兵を出して唐に圧をかけた。そこで大宗は、全国を統一した余勢を以て、突厥との戦いにいどみ、630年に遠征軍を派遣。
唐の勝利
 この時東突厥はトルコ系の鉄勒の部族である薛延陀(せつえんだ)やウイグルなどの諸部族の反乱に遭っていて、唐は彼らと手を組むことで勝利を手にした。

 ここをもって唐の支配領域が遊牧世界まで及んだことになり、羈縻政策が始まる。

 西突厥も徐々に唐の支配下に置かれるようになっていく。657年には滅ぼされてしまう。

西突厥の支配領域

◎第二可汗国(682~744)
●東突厥の復興(682)
→唐に対して反乱を起こし復興。8世紀には唐とも友好関係を持つに至った。この時期に、突厥文字がつくられている。730年代には唐の玄宗が東突厥のビルゲ可汗などの業績を称えて送った文を突厥文字で記したオルホン碑文が残されている。
オルホン碑文
→突厥文字版ロゼッタストーン。これを契機に突厥文字の解読が進み、中央アジアにおけるトルコ系民族の活動の様子が明らかになってきた。1893年にデンマークのトムセンによって解読。

◎vsウイグル(744)
→同じトルコ系。服属していた鉄勒の9部族1つだったウイグルに滅ぼされた。

ウイグル(8〜9世紀)

安史の乱(755)
→唐王朝に協力。最終的に763年に安史の乱を鎮定するのに大きな力を発揮。

マニ教を国境化
→ 反乱の鎮圧に功のあるウイグル汗の後ろ盾もあり、マニ教は中国全土に広がることとなった。マニ教を保護することで、中央アジアから中国にかけて広く活動しているソグド人の商業活動や軍事力を支配下におこうと考えたものと思われる。マニ教を国教としたのは世界史上、ウイグルだけ。

◎vsキルギス(840)
→830年代末になると、ウイグル帝国は連年の自然災害と内訌が続き、キルギスの侵攻を受けて、持ちこたえることが出来ず崩壊した。

これによってウイグルはタリム盆地方面へ移動。トルコ化した中央アジアをトルキスタンと言うようになる。ここに居るトルコ人がマムルークとして西側へ輸出される。

契丹(10〜12世紀)

→五代十国時代辺りと被る。建国者は耶律阿保機。

後晋の建国を支援(936)
→燕雲十六州の割譲を受ける。946年には後晋を滅ぼして、一時中国の華北を支配し、翌年には国号を中国風のと称した。

澶淵の盟(1004)
→宋が遼に毎年銀と絹布を納めるもの。燕雲十六州があるため宋は喧嘩を売れない。

二重統治体制
→ 北方では北面官による昔からの部族制、南方では南面官による州県制を敷いた。遊牧民とそうでない人が領土内に両方いたため。

契丹文字の使用

◎金と宋に挟撃され滅亡(1125)
●西遼(1132~1211)
建国者:耶律大石
西側に逃げた形。後にカラ=キタイと呼ばれる。そもそも契丹はキタイの漢名。

タングート族(11〜13世紀)

西夏(1038~1227)
李元昊(景帝,位1038~1048)
→タングート族を率いて建国。
●西夏文字の使用
→漢字を基にしている

西夏文字
なんか怖いとか使いにくそうって感想が見受けられる

 遼の滅亡後、東方に起こった金に次第に圧迫され、ついでモンゴル高原に起こったチンギス=ハンによって1227年に滅ぼされる。

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