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東欧絶対王政


オーストリア絶対王政

三十年戦争(1618~1648)

ウェストファリア条約(1648)
→神聖ローマ帝国は約300の領邦に解体された。元々オーストリア王は神聖ローマ皇帝も兼任していたため、神聖ローマ消滅に伴って仕事量が激減した。

◎オスマン帝国との抗争(17世紀後半~18世紀初頭)
第2次ウィーン包囲(1683)
→ハンガリーを巡って抗争。オーストリアはこれに勝利。
カルロヴィッツ条約(1699)
→オーストリアはハンガリーなどの東欧諸地域を獲得。

偉大なる女帝

マリア=テレジア肖像画

マリア=テレジア(位1740~1780)
→父カール6世は男子の継承者がいなかったため、法令を制定し女子も帝位を継承できるようにした。しかし、周辺諸国が女帝の誕生に反発し戦争に発展。

オーストリア継承戦争(1740~1748)
→マリアの即位に他のドイツ諸侯が反発。かなり不利な状況に。
オーストリア(ハプスブルグ家)、イギリス
vs
プロイセン、バイエルン選帝侯、ザクセン選帝侯、スペイン、フランス(ブルボン家)
アーヘン条約(1748)
→マリア=テレジアのオーストリア継承権を承認されたものの、プロイセンシュレジエン(石炭と鉄の産地)を割譲することに。

外交革命
→シュレジエン奪回を目指すオーストリアがフランスに接近。イタリア戦争以来の長年の対立が終わる。

七年戦争(1756〜1763)
→シュレジエン奪還を目指してプロイセンと衝突
オーストリア(ハプスブルク家)、フランス(ブルボン家)、ロシア、スウェーデン
vs
プロイセン、イギリス
→ロシアとスウェーデンは女帝が即位していたため味方に。しかしロシア女帝エリザヴェータが途中で病死、次に即位したピョートル3世がプロイセン王フリードリヒ2世を崇拝していたため裏切られ不利に。さらに英仏百年戦争の影響でフランス弱体化、イギリスが強くなり最終的には負けてしまう

フベルトゥスブルク条約(1763)
→プロイセンがシュレジエンの領有権をオーストリアに認めさせた。

改革を試みた皇帝

ヨーゼフ2世肖像画

ヨーゼフ2世(位1765〜1790)
啓蒙専制君主
→啓蒙主義的政策を実施しつつ、専制政治を行う。上からの近代化を目指した。

農奴解放令(1781)
宗教寛容令(1781)
→いずれも貴族の反対で失敗

プロイセン絶対王政

プロイセンの成立

→もともと2つの地域があり、それらが合併して誕生。

ブランデンブルク選帝侯国
→12世紀前半、ブランデンブルク辺境伯領の成立
→15世紀前半 ホーエンツォレルン家の支配が始まる

プロイセン(プロシア)
ドイツ騎士団領
→13世紀前半、バルト海沿岸への東方植民
→16世紀前半、ルター派を受容しプロイセン公国の成立

プロイセン王国
都:ベルリン
→スペイン継承戦争で神聖ローマ皇帝側を支援し王国への昇格を認可(1701)
フリードリヒ=ヴィルヘルム1世(位1713~1740)
→「兵隊王」と呼ばれ、軍備拡張・官僚機構の整備を行い絶対王政を確立した。

合理的な絶対王政

フリードリヒ2世肖像画

フリードリヒ2世(大王)(位1740~1786)
→啓蒙専制君主。「君主は国家第一の僕」啓蒙思想家ヴォルテールと親交。
農場領主制(グーツヘルシャフト)
→西欧は当時商工業が発達していたため、輸出用穀物の生産を目的にした。領主が農民を農奴化し、大農場経営を実施。
ユンカー
→エルベ川以東の領主貴族。グーツヘルシャフトの担い手。
サンスーシ宮殿の建設atポツダム

サンスーシ宮殿

●オーストリア継承戦争&七年戦争
シュレジエンの獲得
第1回ポーランド分割
→領土の拡大を画策

ロシア絶対王政

ビザンツ帝国の継承者

イヴァン4世肖像画

モスクワ大公国(13~17世紀)
イヴァン4世(雷帝、位1533~1584)
ツァーリの称号を正式に採用。コサックの首領イェルマークに指示してシベリアへ進出

ロマノフ朝(1613~1917)
ミハイル=ロマノフ(位1613~1645)
→ロマノフ朝を創始。農奴制を強化。
ステンカ=ラージンの反乱(1667~1671)
→ミハイル=ロマノフの死後農奴制に対して起こった農民反乱。鎮圧し農奴制の強化につながり、また徐々に西欧的な国家機構の整備を進め、貴族世襲制の国から官僚制・常備軍に支えられた絶対主義国家へと変貌していった。

大帝によるロシアの発展

ピョートル1世肖像画

ピョートル1世(大帝)(位1682~1725)
→西欧使節団の派遣。皇帝自らも使節団に紛れて西欧諸国を見聞。ここからロマノフ朝はロシア帝国とも呼ばれるようになる。
北方戦争(1700~1721)
ロシアvsスウェーデン
→スウェーデン王カール12世を破る。バルト海方面から船を出して貿易を行いたかった。
ペテルブルグへの遷都(1712)
→バルト海の覇権を獲得。
アゾフ海へ進出(17世紀末)
→オスマン帝国より奪取
ネルチンスク条約締結
→清の康煕帝。国境線を定める。

女帝の啓蒙専制政治

エカチェリーナ2世肖像画

エカチェリーナ2世(位1762~1796)
→啓蒙専制君主。学芸の保護、教育改革・法治主義への移行を行った。ロシアの産業として農業を重視し、農奴制を強化した。
プガチョフの農民反乱を鎮圧

クリミア半島を領有
ラクスマンを派遣、根室へ来航(1792)
ポーランド分割(1772・1793・1795)
コシューシコの抵抗運動

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