見出し画像

毒親育ちが悩んだ末にたどりついた「愛」の定義



このnoteは、毒親育ちの明日に希望を届けるためのnoteです。




今回は、「愛」について取り上げたいと思います。




ふだんなかなかゆったりした気持ちで記事を書くこともできないので、
今日は、家族のことを想いながら、
「愛」について書きたいと思います。



私にとって「愛」とは、
人生において渇望し続けてきた対象であると同時に、
日々修行のように向き合いながら、
能動的に実践しているものでもあります。



しかし、ずっと自分にとっては、つかみどころのないもの、
というか、
理解が難しいものでもありました。



今年に入ってから「愛」とはこういうものなのではないか、
という自分なりの定義が見えてきたので、
それについて、書いてみたいと思います。



1 毒親育ちにとっての「愛」



「愛」というのは、そもそも難解なものであり、
古来から哲学者をはじめ、
いろいろな人たちが考察の対象にしてきたものでもあります。



そもそも「愛」とは、定義することが難しいのではないかと思います。
しかし、特に毒親育ちにとっては、「愛」は難解なものです。
なぜなら、「愛」を受けて育つことが叶わなかったからです。
「愛」が何か体験として理解することが難しいからです。



機能不全家族では、親が「愛」という名の下に、
子どもを支配したり、コントロールしたりしてきますので、
そのことが、よりいっそう、
毒親育ちにとっての「愛」を複雑にしています。



「愛」とは、支配されるもの、コントロールされるもの、
自由がなくなってしまうもの、
という印象を無意識に抱いてしまい、
自分が愛を受け取ることや、だれかを愛することを忌避してしまう人も多いようにさえ感じます。



でも、同時に、毒親育ちは、だれかに愛されたいと熱望しています。
「愛」という関係に憧れも持っています。



私たち毒親育ちにとって、「愛」とは難解で複雑で、
でも、できれば人生において得たいもの、
そのようなものなのではないでしょうか。




2 「愛」についての本からの学び


20代後半のころ、
周りが幸せそうな結婚をしていく中、
不毛な恋愛をしながら疲弊しきっていた私は、
エーリッヒ・フロムの「愛するということ」という本と出会いました。



この本のテーマは、「愛」とは「技術だ」というものです。
生まれたときから、そこに「愛」が当たり前にあった人にとっては、
もしかすると、すぐにはピンとこないかもしれません。



ただ、私は、「愛」は「技術」、
ということは、後天的に学ぶことができるんだ!ということに
とってもとっても勇気づけられ、
この本を手にとったのです。



しかし、20代後半で初めてこの本を手にとった時の私には、
打ちのめされるような内容ばかりでした。



愛するとは、なんという過酷なものなんだと思いました。



なぜなら、だれかを愛するためには、自分がまず与えなければならない
と書いてあり、それが当時の私にはとても過酷なことだったからです。



当時の私には、「だれかに与える愛など自分にはない」、
と感じていました。
当時の私は、自分が機能不全家族で育ったことをいよいよ決定的に認識し、
その事実と直面していく中で、
とにかく誰かから愛されたいと渇望するエネルギーが強く、
自分が誰かを愛する余裕など持ち合わせていなかったからです。


そう感じたとき、本の内容は理解できたものの、
「愛」という技術は、私は一生体得できないのではないか、
と思いました。



とっても悲しい気持ちになったのを覚えています。




3 「愛」を身に着けるための土台


でも、同時に私は諦めたくありませんでした。
だから、不毛な恋愛を何とか断ち切り、
色々失敗を重ねながらも、行動し続けました。



その結果、幸運なことに、
理解あるパートナーと出会い、
家族をもつことができました。



しかし、結婚してもすぐには「愛」とは何かわかりませんでした。
結婚当初は、良い結婚生活にしなければと意気込みすぎて、
完全に空回りし、
自分で自分の結婚生活を苦しいものにしてしまっていました。



ようやく家族を持てて、
「愛」にあふれた環境を得たはずなのに、
どうしてこんなに苦しいのだろう・・・
と考えたとき、私はあることに気づきました。




いくら家族をもったとしても、
自分自身の心や気持ちが変わっていないから、
苦しいのではないか、
ということです。



結局、結婚して家族をもっても、
私はまだ自分のことが大嫌いで、
自分が人に愛されるはずもない、
そもそも愛なんて信じられない、
こういう自分の元からはいつか夫も逃げていくに違いない、
などと思っていて、
自分を受容することができず、
自己否定感に苛まれている状況は、
結婚前と何も変わっていなかったからです。



そこで、まずは結婚生活云々ということから離れて、
自分ときちんと向き合ってみる作業をすることにしました。
具体的にはカウンセリングを定期的に受けて、
もっと自分を認められるように、
自分を変えていけるように、
努力することにしました。



自分と向き合うことは簡単なことではありませんでしたが、
カウンセリングを通して、粘り強く続けたことで、
少しずつ等身大の自分、
長所だけでなく短所や欠点も含めた自分を
いとおしく思えるような、
そういう感情を育てていくことができました。



たとえ少しずつであっても、
自分のことを認めることができるようになると、
何となく、自分の中に温かい気持ちがあふれていく感覚になり、
自分が枯渇している感じが薄れていき、
それと同時に、
誰かに愛されなければという渇望感も減っていきました。



おそらく、自分で自分を愛することができるようになっていったことで、
他人にばかり愛情を求めることがなくなっていったのだと思います。



この過程の中で、
夫への依存心も減っていき、
夫との関係も、より自然体なリラックスした関係性に変わっていきました。



「自分を愛することができなければ、
他人を愛することはできない」
ということは、
心理学や哲学の本によく書かれていることですが、
それまでは、文章として理解することができても、
はっきりいって、腑に落ちていませんでした。



しかし、私は、
自己受容の心や自己肯定感を育てていくことを通して、
夫との関係性が変わったことを体験したことで、
他人と「愛」のある関係を築くためには、
まず自分を愛することができるようになることが重要、
ということが、腑に落ちました。



自分を認める、自分を愛する、
ということは、
「愛」を身に着けるための土台なのだ、
ということを理解しました。




4 「愛」の実践を経てたどりついた「愛」の定義



以上のような時期を経て、
とっても悩みましたが、
年齢的に先延ばしできないということもあり、
私はその後、自分が親になりました。



親になると、生活はまたガラリと変わりました。



上に書いたとおり、
夫との関係は、私が自分を愛することができるようになっていったことで、
良い方向に向かい、
ある程度、良い関係性の維持のための自分なりのコツのようなものもつかめました。



しかし、また別の新たな登場人物、
それも、赤ちゃんという、
自分たち親が完全に守ってあげなければ生きていけない存在が家族に増えたとき、
私はまた「愛」について否応なしに考えさせられることになりました。



自分が家族を愛しているかと問われれば、
真っ先に自信をもって「はい」と答えられるのですが、
じゃあ、自分が家族を愛しているとして、
どう行動していけば、その愛が家族に伝わるのだろう・・・と考えるようになったのです。



夫との関係は、子どもが増えれば、
どう工夫しても夫婦二人だけのころの関係とまったく同じとはいきません。
だから、夫との間でも「愛」を伝えるにはどう行動していけばいいのだろう・・・と悩みました。



また、子どもとの間では、
自分が何よりも悩んできた愛着の問題を連鎖させないようにしたいと強く思っていますから、
子どもに対し、「愛」を伝えるにはどう行動していけばいいのだろう・・・と当然に悩みました。




そのように悩みながら、
手探りで生活していく中で、
ある時、ふと気づいたことがありました。



私は、できる限り、夫と子どもの前では、
いつも上機嫌でいるようにしています。
機嫌が悪いことほど、家族が嫌な気分になるものはないと思っているからです。
だから、いろいろなやり方を工夫して、自分の機嫌をとっています。



でも、やはり体調が悪い時、
仕事でちょっとした悩み事がある時、
締め切りに追われている時、
など、
いつもいつも上機嫌でいることが難しい時もあります。



しかし、それでもなお、私は機嫌よく頑張ろうとします。
大好きなチョコレートをいつもより多く食べたり、
大好きな動画を見たり、
時には買い物をしたりして出費を伴っても、
何とかご機嫌になろうとします。




そこまで頑張って機嫌よくしたいのは、なぜだろう、とある時考えました。
自分が切羽詰まって大変な状況の中でも、
なんでこんなに努力して機嫌よくいようと頑張っているのだろう・・・
そう考えたとき、
答えは、家族に愛情を伝えたいから、という理由でした。
家族を愛しているから、
私は家族に体調不良や仕事のストレスを向けたくない、
家族を愛しているから、
私は機嫌よい妻・機嫌よいママでいたいのだ、
ということがわかったのです。



その時、自分なりに、「愛」というものが以前より一段階深く理解できるようになった気がしました。




「愛」の実践とは、こういうことなのかもしれないと。
自分に余裕のある時だけでなく、
自分に余裕のない時であっても、
愛する人に笑顔を向ける、
愛する人に幸せであってほしいと願い行動する、
それが「愛」なのではないかと。
そう思いました。



と同時に、だから「愛」は難しいんだ、と感じました。
自分に余裕のない時も含めて、
相手のことを思いやる心を持ち続けること、
そして、相手のことを思いやる行動をとり続けること、
それは、やはり、決して簡単なことではありません。
「愛」とはなんて、厳しいものなのだろう、
まるで修行のようだ
と率直に言って思いました。



しかし、だからこそ、人生をかけて体得していくべき「技術」でもあるし、
「愛」のあふれる生活が人の心に温かさ、充実感、潤いといったものを
もたらしてくれるんだ、とも思いました。



このことに気づいたとき、
私は、20代後半からずっと悩んできた「愛」というものについて、
一定の理解ができた気がしました。



もちろん、これからの人生を通して、
「愛」の理解が変わったり、
深まったり、
いろいろな可能性があります。



でも、今の時点では、
私にとって「愛」とは、
たとえ自分が大変な状況におかれていたとしても、
なお相手のことを思いやる心、
なお相手のことを思いやって行動できること、
そう定義できました。


その上で、
私はこれからも、
この厳しくも実り多いと信じられる「愛」というものに、
向き合っていきたい、
人生をかけてチャレンジし続けていきたいと思いました。





以上、毒親育ちにとっての「愛」でした。


今回もお読みいただき、ありがとうございました。
偉そうな内容を書いてしまいましたが、
実際には、毎日「愛」の定義を意識しながら生活するのは、
簡単なことではなく、
今日はあれがダメだったな、とか、
昨日は言いすぎたな、とか、
そういうことはしょっちゅうです。



ただ、「愛」は意識していくことが大切なのではないかと思います。
日々の生活の中で、「愛」は目に見えないので、
ついつい忘れられがちですが、意識していくことで、
目に見えるようになっていきます。



私は、今年は、生活の中で、よりソフトな面、
人の気持ちだとか、人との関係だとか、
そういったところを重視していきたいと思っているのですが、
ついつい忘れがちになってしまうので、
なるべく頻回思い出すようにしています。
そのために、
手帳の最初のページに「愛」と書いているくらいです(笑)



ゴールデンウイークで「愛」とじっくり向き合う時間を作りたかったということもあり、
記事にしてみた次第です。
「愛」とは難しいな、と思っている人たちとシェアできればうれしいです。




今後ともよろしくお願いいたします。











この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?