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尺側側副靭帯(UCL)再建術に思う…

 かれこれ2か月近く、書くべきか、書かざるべきかを考えてきた。モヤモヤしたまま年を越すのも癪に障る、とりあえずひとまずは思いのたけを吐き出してみることにする。きっかけはこの記事。

モヤるところが多すぎてどこから手をつけたものか、一言でいうと

「そんな単純なものじゃない…」

ということ。

 なんでも記事によると、エンジェルスは尺側側副靭帯(Ulnar Collateral Ligament: UCL)再建術、通称「トミー・ジョン手術(以下TJ手術)」に踏み切るのが早く、その割に結果が出ていない、とのことで、われらが大谷選手の投手としての復帰がうまくいかなかったのは球団の医療スタッフの能力不足によると思われる、と…

 実はワタシ、学部・修士課程通じて、そのエンジェルスから最も近い、それも物理的な距離だけでなく、当時のヘッドアスレティックトレーナーやチームドクターとも日常的にコミュニケーションが取れるところに居た。ヘッドアスレティックトレーナーのNed Bergert氏にはエンジェルスを離れられた後、母校の非常勤講師になっていただいたし、チームドクターのLewis Yocum博士は、母校野球部の選手を何人も無理を言って診てもらっただけでなく、母校の仕事を離れたあとの2007年にも私のクライアントの主治医を引き継いでいただき、短い間だったが一緒に仕事をさせていただいた。残念ながら2013年、師匠のFrank Jobe博士より1年早くお亡くなりになられたが、その後のエンジェルスのチームドクターを引き受けたのは、母校の野球部(の一部の選手)以外を担当してこられたMiguel Prietto率いる医師たちで、こちらとのお付き合いはそれこそ母校のアスレティックトレーニング教育プログラムに編入する前、一般教養と編入前現場研修をうけた2年制短期大学のチームドクターでもあったところからはじまる(このPrietto医師の凄さについてのエピソードは別の記事で書くことにしたい)。

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 それだけ距離が近かっただけでなく、学部卒業後にインターンの面接を受けたにもかかわらず、アナハイム・エンジェルスとは縁がなかった(当時オーナーであったディズニーが無償インターンを認めなかったから、と説明を受けたものの、自分に力がなかったんだと凹んだのは今となっては懐かしい思い出でもある)私だけに、身近な存在であったエンジェルスに憧れ、かなり濃い色眼鏡がかかってしまっているのかもしれないが、やはり聞き捨てならない。

 一方、この記事でベタ褒めされているサンディエゴ・パドレスは、UCサンディエゴの医学部との連携を深め、TJ手術後の選手を復帰させて結果を残しているのは事実。だからといってそんな単純に優劣をつけられるとは思わない。前述したYocum博士も、その師匠であったJobe博士も「彼らが、切る(手術する)っていうんだったらよっぽど悪かったんだな」と言われるくらい「可能な限り保存療法で」というスタンスだったし、よく知るPriettoのほうも「なんでも切ればいい、ってもんじゃない」とまず私達の保存療法を試すことを優先するスタイルだった。少し話がそれるが、Yocum博士、Jobe博士ふたりの拠点であった、LA国際空港にほど近いKerlan-Jobe Clinicは、2005-2010年頃はMRIなど画像診断設備がほかの新しい病院と比べて老朽化していたらしく、その当時最新の機器で撮影していたなら、彼らももう少しアグレッシブに手術に踏み切っていたのでは、という意見もアメリカ人整形外科医複数名から聞いたことがある。がしかし、凄腕の代理人がいるMLBレベルの投手がセカンドオピニオンとして別の場所で画像診断を受けないはずもなく、仮にチームドクターのもとで撮影した画像に不満があっても、別のところで得た画像も参考に決断を下すに決まっている。

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 では各球団のクラブハウスレベルではどうか、私の経験では、スプリングトレーニングにインターンとして参加させていただいた球団、その後通訳兼業で2シーズン働かせていただいた球団はじめ、それ以外にも折に触れ訪問させていただいてきた私の友人・知人たちが勤務する球団においても、ATCの能力差など感じることはまずない(みんなはるかに私よりデキる人ばかりなのだ)。TJ手術や関節唇損傷からのリハビリを担当するのは、シーズンインしたのちもキャンプ地に残り、AAAからルーキーリーグまでのマイナーリーグのアスレティックトレーナーたちを監督する大ベテランのマイナーリーグ(AT)コーディネーターあるいは、リハビリテーション・コーディネーター(球団によってはここにPT: 理学療法士を置く)が最低レベルで、メジャーの選手であれば、契約条件などによっては1軍帯同のまま、さらに経験豊富なMLBレベルの医療スタッフが担当する。ごく一部の例外(下記リンクのようなJason Steere とか、女性初のMLBヘッドATとなったSue Falsone、いずれもPT/ATCでLAドジャースだ)を除いてはMLB球団在籍10年以上のベテランが本気の仕事をしている。エンジェルスだけがどこの馬の骨かわからないようなATCを碌に教育もせずに仕事をさせているはずもない。

 ここまで、大谷選手の活躍を祈念する日本人記者さんの主観をもとにした記事に大人気なく突っ込みを入れてきたけど、この件について思うところを、米国で論文化された客観的な統計データに対しても少し掘り下げて見てみたい。題材はこちら

Conte SA, Fleisig GS, Dines JS, Wilk KE, Aune KT, Patterson- Flynn N and ElAttrasche N, Prevalence of Ulnar Collateral Ligament Surgery in Professional Baseball Players Am J Sports Med. 2015 Jul;43(7):1764-9

30球団、5088人の野球選手の傷病歴を調査、UCL損傷でTJ手術を最低でも1度受けたことのある選手は497人(全体の約10%)で、内訳は投手2706人中437人(投手の16%)、野手2382人中60人(野手の3%)という。投手の内訳はMLB(メジャー・1軍)レベルの投手382人中96人(25%)、そしてマイナー(2軍以下)レベルの投手2324人中341人(15%)がTJ手術経験者で、特筆すべきは、前者の負傷時の平均年齢は28.8歳、後者の負傷時の平均年齢は22.8歳と大きく開きがあるということ。さらに掘り進めると、メジャーレベルの投手はプロ入りしてから負傷したケースが86%であるのに対し、マイナーレベルの投手は高校や大学などプロ入り前に負傷し手術を受けたケースが61%にも及ぶという。

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 上記した数字をざっくりと見て、まず感じるのは、MLBまで駆け上がれる選手はやはりアマチュア時代にTJ手術歴がない選手が大多数であり、高校や大学などアマチュア時代にTJ手術を受けた選手がMLBまで駆け上がるのは非常に狭き門であることがわかる。またMLBまで駆け上がった投手が負傷するのは選手として脂がのってきた年齢、そこまでの投手キャリアで十分存在をアピールできている投手であることが想像できる。すると同じ論文の中にあるこのデータ

MLB(1軍レベル)で発生したTJ手術適応例147件のうち80%が最低でも1試合はMLB(1軍レベル)の試合で復活登板しているが、67%だけがその後もそのレベルにとどまることができている

は、先に述べたように、すでにその投手は負傷する前にしっかりと実績を残しており、負傷してTJ手術を受けたとしても、そのレベルで十分活躍できるだろう、という期待値が球団運営側にはある、のではないか。さらに「最低でも1試合」は、いわゆる「メジャー契約(各球団40人枠に入る)」の選手として復帰登板の機会が保証されていた可能性が高いが、それを果たして「80%の投手が復帰できた」と無邪気に言えるのか、という疑問も残る。この論文の著者の筆頭はStan Conte氏、サンフランシスコ・ジャイアンツとLA ドジャースでヘッドATCを歴任された方、「最低でも1試合は」と但し書きされたところに「もし野球界で働くATCなら、ちゃんと行間を読んでね」というメッセージが込められている。それにしてもこの論文、著者陣が豪華すぎる、いかにも2010年代の「投球障害に最前線にいる実務家」が研究でも力を発揮しました、感がある。機会が得られるなら印刷したこの論文に著者全員のサインをいただき、額に入れてオフィスに飾りたいくらいだ。

 その一方、MLBレベルに復帰できなかった投手の中には、負傷してTJ手術を受け、リハビリに励むも球団が途中でさじを投げてしまったケース(完全復帰は術後2年目に入ってからともいわれるのだから球団によってはしびれを切らすのもわかる、もちろん40人枠にいた選手を解雇するにはそれ相応の違約金が発生するが…)も多く含まれるだろう。最初の記事にある、エンジェルスで復帰できなかった投手がパドレスで復帰できた、というのは、現場のスタッフの能力というより、編成(GMほか)側が治る見込みが十分あるとわかっている選手をあえて放出せざるを得ない事情があったのではないか、とも考えられる。そしてパドレスはエンジェルスが放出したその選手を格安で契約できたため、ダメ元で機会を与えてみたら、という側面もないとは言えないだろう。私が勤務した球団でも、06年の5月になって、あえて他球団が前年オフに放出したリハビリ途中の選手と契約し、8月に復帰させ、そのシーズンを終えたと同時に放出した例があったのを思い出す。そして、解雇するにあたり高額な違約金が発生するメジャー契約の選手と違い、解雇するにあたり違約金が発生しないマイナー契約の選手にいたっては、球団は必ずしも復帰するまでリハビリしなくてはいけない、というわけでもないから当然のように復帰できる率は下がる。

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 こうしてデータをつらつらと掘り下げていくだけでも、はじめに記したように「そんな単純なものではない」ということはお分かりいただけると思う。もし今NPBで投げていて、いずれはMLBに挑戦したい、と考えている人(こんなところ読んでいるはずはないでしょうが…笑)がいるなら、先に挙げた記事なんかに惑わされないでほしい。どの球団と契約したとしても、今いる環境よりはるかに優れた環境そして人材が海の向こうにはある。日本とアメリカ両国の准医療資格を取得し、MLB球団でも働き、両国にて養成教育に携わった私が保証する。30球団どこに行ったとしても、凄い人たちがしのぎを削っているのは選手だけに限らない、我々のような裏方も激しい競争にさらされているのだ。ことTJ手術のリハビリについては、球団外の健康保険が適応される民間のクリニックであっても、週1回20分PTとマンツーマンなんてアレなレベルではなく、加入している保険によっては肘だけで3時間のリハビリを週6回受けられる環境があり、球団の外のPTやATCであってもそのレベルで仕事が普通にできる、その中から選りすぐられた人間がキャンプ地でリハビリテーション・コーディネーターを名乗っているのだから。

 私が長居のACIラボでお預かりしているクライアントには米国のクリニックでできる仕事の80%くらいまでの内容のセッションを提供できる体制にはなっていると自負している。ただ、残り20%を埋めるのはなかなか難しい…頑張らねば。

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