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「覚悟(1 NCAA編)」

 前回の投稿からずいぶんと時間が過ぎてしまった。新型コロナ感染症の感染拡大はとどまることを知らず、私が帯同するチーム、関係するアカデミー業務も今は活動を停止している。こんな時に僕に希望の光を与えてくれるのは、海の向こうで活躍する日本人アスリートたち。なかでもアナハイム・エンジェルスの大谷選手は2シーズン前に受けたトミー・ジョン手術からの順調な復帰の過程にあるだけでなく、先発投手でありながら本塁打でもリーグトップの位置にいるのはあのベーブ・ルース以来の大殊勲だという。

 その大谷選手が投手として先発するときの相棒になる捕手はカート・キヨシ・スズキ。僕の母校カリフォルニア州立大学フラトン校出身、というだけでなく、19年前の2002年、僕とは学生アスレティックトレーナーと選手、という関係でもあった(下写真、僕の右横で帽子をかぶっていないのが彼)。

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 2002年当時の母校は、まだアスレティックデパートメントに十分な予算がなく、それまで全米優勝3回を経験している野球部といえど、遠征には学生トレーナーを帯同させるしかできていなかった。僕らアスレティックトレーニング教育学科に所属している学生にとってはATC有資格の大学院生がカバーする男女バスケットボールよりも、この野球部で1月2日の練習開始から、最長で6月第3週のカレッジワールドシリーズの決勝まで試合・練習の全日程、実習させてもらえることは、その学科の男子では最優秀の学生であると認められたことを意味しており、非常に名誉なポジションではあったが、野球部の指導者たちからみたら、本来は母校の準ヘッドアスレティックトレーナー、Chris Mumawが担当する仕事を、予算の都合で学生に任せざるを得ないだけ、という認識であった。(下に動画を貼っておく、ズルしまくっている(笑)けど、全米2位の速さ、片足17秒でテーピングを巻く僕の現場での師匠だ)

 前年も全米ベスト4まで残り、1995年以来の4回目の全米優勝にあと一歩に迫ったというタイミングで、母校野球部では非常に珍しく州外(ハワイ)から特待生として入学してきたのがカート・スズキだった。

 2002年シーズンは前年活躍した選手の多くが3年終了時にドラフト指名され、前年のカレッジ・ワールドシリーズの経験を後輩たちに伝えられる主軸の選手がいない状態での幕あけとなった。また、どういうわけか、次々と腰痛の選手が発生、これは野球部に限らず、女子体操部や陸上部でも同じ時期に多く発生していたので、ストレングス・コンディショニング部門が原因と思われるものだったが、この混沌の中、1年生捕手のカート・スズキにも出番が回ってくるようになり、3月中旬、いよいよスタメン捕手として固定されそうなタイミングで、今度はそのカートも腰痛に襲われる、それも、ハワイから彼のご両親が観戦に来られたのと重なった…

 前回1995年に母校を全米優勝させた名将、George Hortonはスズキの両親が観戦される金曜から日曜までの3連戦でどうしても出場させたい。その気持ちは僕も痛いほどわかった、でも僕の判断は「No」…。お前じゃ話にならん、と僕の師匠Mumawに詰め寄るも、

「Yoshiであっても、私であっても、そして仮にジョーブ博士(実際投球障害ではカーランジョーブクリニックに紹介していた)であっても、コレでは試合には出せないという判断するよ」

と僕をかばってくれたのだが、さすが名将Horton、それでも引き下がらず…

「オレの親しくしている学外のカイロプラクターに診てもらうのを許可してもらえないか?」

と取引を持ち掛けてきた。一番現場に出て彼らをみているのは僕だ、僕は日本ではそのカイロプラクターと同じく開業できて健康保険に施術料を請求できる柔道整復師の資格をもっている。僕の答えはもちろん「No」だったが、師匠Mumawは「いいよ」とあっさり認めてしまった。確かに監督は勝つのが仕事、そのためにはわずかな可能性に賭けるのも無理はない、でも高度な分業社会、そして何か間違いがあればすぐに訴訟されるこの国でここまでぎりぎりを攻めるリスクを今取る必要があるだろうか。「なんで?」と詰め寄る僕に

「もしそのカイロプラクターがいい仕事をして、スズキが試合に出られれば、監督にとっては勝利、そのカイロプラクターをもってしても試合に出られなければ我々の勝利、どっちに転んでも勝ちじゃないか…」

という理屈だったが、僕は到底納得できなかった…が、しかし、もうあと数か月先だとはいえ、僕はまだこの国ではATCではない、学生だ。郷に入っては郷に従え、師匠の判断を受け入れるしかなかった。

 結果は、翌日土曜と日曜の朝にそのカイロプラクターの治療を受けたが、試合に出られる状態にはならず、だがその翌週には症状が緩解し、次の週末からは試合に出られる状態となり、師匠言うところの「我々の勝利」には終わった、この腰痛に関しては…。

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 その後レギュラーシーズン最終週を迎えたころ、Big Westカンファレンスの優勝はもう逃した後だったが、まだ最終シリーズ、ライバル校のカリフォルニア州立大学ロングビーチ校との3連戦の結果によってはNCAAトーナメント進出の可能性が残されていたタイミングで、またカートを別の怪我が襲う。こちらのシステムでは、高度な画像診断を得られるのは、3連戦後の週明けが最短。前回の腰痛で学外のクリニック受診を認めたばかりに、今度はMRIとCTの画像診断を(しかも書面で)本来の我々の手順を超えて(今振り返っても、いくら身内に関係者がいたとはいえ、あそこまでアグレッシブに動ける、そして19歳の彼と彼の周囲の意識の高さや持つ人脈に驚くしかなかったが)自分で取ってきた。それもMumawがいない、アウェーでの試合開始直前に…。診断書はあるが、チームドクターによるものではない、監督からは

「出せるのか?出せるよな?」

とプレッシャーがかかる。この試合、僕も勝ちたいし、スズキは先発しなくとも、いつでも出られる、という虚勢だけでも相手に張っておきたいのもよくわかる。でも、本来の手順に乗っていない、どこのだれかよく分からない医師の診断…ふつうはそんなことは認められていない、がこちらは一度それを認めてしまっている。僕はと言えば、日本では柔道整復師で、あと数か月先にはATCになってるはずとはいえ、まだこの国では無資格の学生だ。師匠の携帯に電話し、その診断書をもって出場可とする旨(ようするに好きにして…との意)を監督に伝えるだけで僕としてはもう精一杯だった。3連戦は負け越した、が、首の皮一枚でなんとかNCAAトーナメント(全米ベスト64を16に絞る1次地区大会)への進出はできた。

 NCAAトーナメントの1次地区大会は敗者復活制度もあり、何とか最終日まで生き残ったが、午後から、うちにとってはダブルヘッダーとなる試合でホスト校だったスタンフォードに敗れ、ベスト16入りは叶わず、6月第1週卒業式で角帽にガウンを着て学位記を戴くかわりに、スタンフォード大学のサンケンダイアモンドの3塁側ダグアウト内で僕の野球部での実習は終わった。遠征から戻ると師匠は僕の荷解きを手伝いながら、

「あのスズキをカイロプラクターに診てもらう、という判断は間違ってた、すまなかった…」

と、僕が生まれた年からATCである師匠が、僕に詫びた。それにどう僕が答えたか放心のあまり記憶にないが、師匠に、

「これからずっとあの調子で好き勝手されるかもよ」

というような言葉を返したのだと思う。それに対して師匠Mumawは

「それは覚悟の上さ、選手の障害予防のためだけではなく、Yoshiのような若者に濃い経験を積んでもらうための環境を作ることでも大学からお給料をもらっている… ただ、あのスズキは想定外だった、あと最低で2年、ドラフトされなきゃ3年これが続くことになると思うと気が重いが」

 僕はそこで初めて、師匠Mumawが背負っているものの全景が見えたように思う。ATCとして生きていく覚悟。プロとして、自らの判断に基づいた結果から逃げることはできない、ということ。負傷した選手に最後まで寄り添うこと、負けが込んでいるチームであっても最後まで支え続けること、それも、まだ資格を持たない学生に仕事の大半を任せながら…。それでも時に、自分の能力不足が成績低迷の原因だと判定され、職を失うかもしれないこと。場合によってはもう2度とその世界に戻ってこれない失職かもしれないこと。そうなることが分ったとしても、逃げずにシーズンの最後まで、いや戻ってこれないかもしれない来シーズンのためにも戦い続けねばならないこと…。

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 学部での最後の課題が野球部への全日程帯同だったことに感謝した。自らの無能さに悩み苦しんだ半年間の帯同だったが、これで胸を張って卒業できた。学ぶべきことは学んだ、そう、この日が僕にとっての卒業式だった…。

 もう2度とダグアウトから母校の試合を見ることはない寂しさはあったが、大学院生として新しい道に進むことに目が向くきっかけとなった。ただその翌年2月の開幕戦には後輩の学部生のサポートのために母校Goodwin Fieldの3塁側ダグアウトに居ることになるとは、この時点では想像もできなかったが…。

 ここまで読まれて、今現役続行中のアスリートのことをここまで暴露して大丈夫か?とご心配される方がおられるとは思うが、僕も足掛け13年間教育に携わった身、この道を進もうとする若い人のために、と覚悟をもって投稿しているつもりだ。


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