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スポーツ選手という商品の価値

ここ数ヶ月、スポーツ選手のSNS発信は格段に増えた。コロナの影響が大きいのは言うまでもなく、これまで以上にスポーツ選手が「商品としてどのような価値があるか」をシビアに判断されるようになり、”競技者として以外の価値”を考え始める選手が増えたからだろう。最近は現役選手のSNSでセカンドキャリアやデュアルキャリアという言葉を目にする機会も多い。

ただ、この6月、7月で少し状況が変わったように思う。発信の頻度や質、量がやや減った感があるし、Twitterのタイムラインを眺めても熱量の総和は確実に減っている。

最初は、「各競技ともにリーグの再開や2020シーズンの開幕が決定されて各球団のトライアウトなども始まったから、選手の視線が改めて”競技者としての価値”に向き始めたんだろうな」と考えていたが、どうもそれだけではなさそうな気がする。

スポーツ選手という商品の価値はいったいどこにあるのだろうか。

スポーツ選手の価値の真髄は「努力を想像させること」

僕らがスポーツを見て勇気をもらえたり励まされたりするのは、選手の競技レベルが高いことや、観客の常識を超えるような身体能力が発揮されるといったこともあるけど、競技姿を観ることで「そのレベルに達するまでに積み上げてきたであろう努力の質や量が想像されること」も大きな要因だろう。

日本では好きか嫌いかに関わらずほとんどの人が学生時代にスポーツ(体育)の経験をするから、小さい頃に「もっと速く走れたら」とか「もっと上手くできたら」と思ったことが1回以上ある人は男女問わず多いはずだし、大人になってからもスポーツ選手の磨き上げられた肉体や技術を見たときに「その選手がいかに努力してきたか」はわりと誰でも想像しやすい。

この、観ている人が思わず「自分もそんな努力ができればな」と憧れてしまうほどの努力を当然のようにしてきたこと、し続けていること、これはスポーツ選手やトップアスリートのとても大きな価値であり圧倒的な魅力だ。

その魅力によって、観ている人に「自分も(仕事や部活や勉強や家事や他の何かを)今よりまだもう少し頑張れるかもしれない」と思ってもらえるかどうか。そこにまだないより良い未来を想像してもらえるかどうか。それがスポーツ選手という商品が提供できる価値の本質なのではないかと思う。


「引退後への不安」の正体

数年前まではこのような選手の努力や成長してきた過程というものは、観ている人が勝手に想像するしかなかったが、今はSNSで誰もが発信できる。

これは多くの選手が感じていることだと思うのだが、現役選手の発信は引退後の選手に比べて圧倒的にライク(いいねやスキ)が集りやすい。でもこの理由がハッキリとは分からないから「引退後も応援してもらえるのかな」といった漠然とした不安が生まれるのではないだろうか。

理由はいたってシンプルかと思う。引退後はその選手の「努力の質・量、その成果」が見えないからだ。現役中は努力の成果をお披露目する環境(主に試合)をチームが用意してくれるわけだが、これを理解していない選手が意外と多い。もちろんその環境も選手自身が勝ち取ったものなのだが、「環境を勝ち取ることと環境を作り出すことは別物」ということは認識しておくべきだろう。

その認識のもと、現役中から「環境を自分で作ること」や「新たな環境を見つけ出す嗅覚」を養っておければ引退後の不安は多少解消される。

SNSも環境を作る手段として使えるが、SNSの目的をそこまで解像度をあげて考えている選手は多くはないように感じられる。(ちなみに僕はそこまで考えてない)


「現役中はボーナスタイム」の意味

ではSNSを頑張れば良いかと言うとそう単純でもない。冒頭記述したように、大前提としてスポーツ選手の魅力(価値)は「誰もが憧れるような努力を平然とできること」であって、競技レベルが高いことやSNS発信が魅力的なこと・ユーモアがあること・造詣が深いこと・容姿が良いことなどはあまり本質的ではない。

"引退後に比べて現役中の方が応援してもらいやすい状況"は、しばしば「ボーナスタイム」と言われることがある。何となくボーナスタイム以降のことを不安にさせるニュアンスだが、そもそも企業活動で言えばボーナスとは「既に行った活動(成果)に対する上乗せ報酬」なのだから継続的に得たいのであれば成果も継続的に求められるのは当然だろう。

トップリーグで活躍するような選手たちはそれまでに本当に血のにじむような努力を積み重ねて、成果を出し、今この瞬間も活躍しているのだからボーナスタイムを受け取る権利がある。翻って、仮にセカンドキャリアに進んだときに現役時代と同じような努力の質と量で同じような成果を出せないのであれば、現役時代と同等のボーナスタイムが訪れないのも当然である。

従って、スポーツ選手が競技以外の活動をするとき、その活動を競技と同じように応援してもらいたいのであれば、競技に向き合っているときと同じような努力の質と量と同じような熱量で取り組むべきだろう。
(そもそも、その努力の質や量や熱量に魅力があるのだから)

もしも、競技人生を終えてセカンドキャリアに進んだときや、現役中にデュアルキャリアに資する活動をしているときに「競技ほど応援してもらえないな、自分には向いてないのかな」と感じる選手がいるのであれば、ぜひ「競技と同じくらい高い意識で取り組めているか」を考えてみてほしい。

たぶん、向いてないのでも才能がないのでもなく、シンプルに努力が伴ってないだけだ。(向いてない可能性もあるけど)

逆に、「この活動は競技ほど真剣に取り組めていないのに妙に応援してもらえるな」といった違和感を覚えたときには十分注意されたい。それは恐らく選手としてのスキであって、その活動自体へのスキではない可能性が高く、引退後にはなくなってしまう応援だと思われる。

まとめ

ボーナスタイムが終わるのは誰でも怖い。ゲームのスーパーマリオでもスターの効果音が切れる瞬間はヒヤヒヤする。でもそこでゲームが終わるわけではない。要は、その瞬間瞬間の実力で最後まで走り切る覚悟があるかないかの問題だ。スポーツ選手やトップアスリートの素晴らしさは「常に今よりも上を目指して努力できること」だ。セカンドキャリアでもデュアルキャリアでも、片手間の努力ではなく、初めてその競技に触れたときと同じような気持ちで、同じくらいの熱量で取り組めるのであれば何も怖いことはない。逆に厳しく言えば、「競技と同じくらい努力する自信はないのに引き続き同じように応援されたい」というのはただの甘えに他ならない。違うステージに進んだとしても自分ができる努力を最大限できれば、必ずまたスターを捕まえてボーナスタイムに突入することはできるはずだ。今できているんだから。自身がスポーツ選手という商品としてなぜ輝けているのか、輝いてこれたのか、その本質を常に意識しておくと良いのではないかと思う。

最後に自分のことを少し

僕自身、今はB3リーグのさいたまブロンコスに所属しつつ、友人と一緒に立ちあげた3X3チーム(LEDONIARS)の活動も行っているが、ここに至るまでに積み上げた努力に自信をもって、そのうえで改めてこれまで以上の努力を積み上げていきたい。常に自分の価値の本質がどこにあるのかは意識するようにしていきたい。

今日は、このnoteの流れ的に「スポーツ選手が二足の草鞋を履くということ」についても触れたかったのですが、長くなったのでここまでにしておきます。

ご清覧ありがとうございました。

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