「歩くひと」完全版を読みました

「孤独のグルメ」(原作・久住昌之 氏)で谷口ジローさんを知った私は「歩くひと」公式Twitter(@inu_wo_kau)で公開されていた第15話「よしずを買って」を読んでこの本を即購入しました。主人公がよしずを買って家までの道を歩くだけ。それだけのストーリーなのに何時間も眺めてしまう。作品の中の美しい風景と汗みずくになってゆく主人公にとても心惹かれました。

今日早速家に届いてうきうきと本を開きました。以下はその感想です。(一部ネタバレを含みます)

第1話 P10(以下完全版でのページ数)の見上げるほど大きな木々がとても良い。これ以降の話でも感じることですが、主人公と奥さんの会話がかわいらしい。飾り気なくて心にスッと入ってきます。

第2話と第3話に描かれていた風景には既視感を覚えました。私が過ごしてきた土地がモチーフなのかなと思わせるくらい。寄稿されていた是枝裕和監督、それから限定特典で封入されていた「近況報告」でご本人も書かれていましたが、作品全体にそう思わせる、なつかしくてくすぐったくなる風景が並んでいます。どこという訳じゃない。でもそこに居たことがあるような親しみが感じられます。

第4話は主人公が子供らの模型飛行機を取りに木に登る下り、P43の大ゴマに至るまでを何度も読み返しました。画面が主人公の目線と同じように高くなって、遂には街とそのはるか遠くまで見渡せる高さに至る。風が吹き抜けてこずえが揺れる音まで聞こえてくるようでした。

第5話は私の1番好きな話です。バスの窓を流れていく景色ってどうしてあんなに素敵なんでしょうか。小さな山を登って雨に打たれて、その中を晴れやかな気持ちで帰る心地。覚えがあります。

第6話や第14話は少し大胆で、呼んだとき一瞬息をのんで、その後笑ってしまいました。こういう突拍子もないことが描かれているのも楽しいです。

第7話はきっと読んだ人みんな好きになると思います。私も好きです。冒頭で主人公と奥さんが話していた様な「わくわく」する気持ちで最後まで読めます。

第8話は第15話と似ていて、一話の中で時間がずーっと流れていきます。15話は1人で、8話は身なりのいい老紳士と一緒に。道を歩いているだけなのにこんなにも見入ってしまうのは丹念に書き込まれた景色の一つ一つと、近づいては離れてを繰り返すカメラワークが、その道を歩く自分自身を錯覚させるからでしょうか。

9話や10話、13話は既に街を歩き慣れた主人公が、新しい路地を抜けたり、クリスマスや午下りの街を確かめるように歩いていきます。この街、そこに住う人々、歩くこと。主人公にとってどれも好ましく、心を落ち着けるものたちだというのがわかります。

第11話はそれをマンガにするのか!とびっくりした話です。ありそうでない(いやある…?)割れた眼鏡で見る風景を楽しむ主人公の話。実際私の眼鏡があのように割れてしまったらきっと嫌な気持ちになるだろうに、主人公の視点で受け取るとそれをおもしろいと思ってしまう。魅力的な話です。

第12話は全17話の中で最もドラマチックで、これだけ主人公が見た夢だと言われても納得してしまうような、脈略のない、それでいて放心してしまう美しさがあります。起きても覚えてる夢ってこういう印象的なものが多いですよね。しかし作品に出てくる住民は皆心安らかで主人公と似ています。「取るに足らないもの」の中に愛しさを見つけている。いいなあ。

16話は一見11話に似たトラブルに見舞われる主人公の話ですが、11話と違って「なんだよォ」という感じが伝わってきます。だから大衆浴場でだらんとする姿や帰り道奥さんと見る雨上がりの空を見て私もホッとしました。

第17話は3話のように出掛ける話です。3話で描かれた「町」より今回の「海」は遠そうです。6話で見つけた貝殻を海へ返しに行こうと話していた主人公。7kmを歩くのはきっと楽じゃないだろうに奥さんの楽しそうな姿が眩しい。のんびりゆっくり、心の赴くまま歩くから、ゆかいで楽しい。そんなメッセージが自然と滲み出ている気がします。

海外(仏)の雑誌に掲載されたという巻末の2篇は本編の17話よりも主人公の気持ちがより分かり易いです。素直な好奇心そのままに歩く主人公と美しい風景が相まって凄く生き生きとしています。

それまで私は“食“や“歩”という行為は時間と金銭と自分の心に余裕がないと真に楽しめない、と思っていました。(「孤独のグルメ」は原作者が別に居ますが)この「歩くひと」の主人公(鈴木氏)も元々田舎で(今で言う)のびのび育ち、安定した収入を得られる仕事に就き、奥さんを連れてこの街に越してきた、という背景が想像できます。

描かれていないところがあるにしても、彼の様なゆったりとした時間の使い方は、一日を仕事に追われ、帰ってくると何もできず寝てしまい、偶の休日は昼過ぎまで寝て、かろうじて夕方買い物や動画サイトで映画を見たりする私にはとてもできそうにないのです。

それに加えて教養があり、それ故に鳥や貝の名前にも興味を持ち、心穏やかに「取るに足らないもの」を愛せる人。そりゃあそんな人なら楽しめて当然だよ。羨ましくて、少しズルい。率直にそう思ってしまいました。

しかし最後まで作品を読み進めていくと、彼のような一握りの人しか本当にそれらを楽しめないのだろうか?と疑問がわいてきたのです。

是枝監督が寄稿された「カタクリの花」にもありましたが、私或いは私たちは「取るに足らないもの」を見つけ、愛することによって心の余裕ができ、それが時間や金銭に抱く焦燥感をゆっくりときほぐしていくのではないのだろうか。つまり楽しいという気持ちこそが「歩くひと」をつくるのではないかということに思い当たったのです。

自分の住む街は田舎といわず都会といわず、日本中どこにでもある「取るに足らない」景色が広がっています。その中にはきっとそれまで気づかなかったものや人が存在しています。

歩いてみたい。そう思うだけで、ゆかいで楽しい気持ちがしてくる。きっと私も「歩くひと」になれる。そう思えるような作品でした。

気になりましたら皆さんも買って読んでみてください!