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『復讐』としての不登校

こんにちは、三冠王(不登校+ひきこもり+ロスジェネ)のyoshi(@Yoshi)です。

私はかつて小学4年生から長期にわたる不登校児でした。
今回は不登校になった経緯について書いてみたいと思います。

不登校になる前の私

子供の頃は勉強もスポーツも得意で友達も多く、いつも外で遊んでいるような活発な子供でした。

母親の話によると言葉を覚えるのが早く、幼稚園に上がる前から絵本を丸暗記したり、漫画を読んだり、アルファベットや簡単な英単語は覚えていたようです。

そのため学校の授業がとても簡単に感じられ、テストはいつも満点に近い成績でした。
また走るのが得意で運動会のリレーでアンカーを任された時、一気に2人を抜き去って優勝したことから学校中で話題になったことがありました。
そうした経緯からクラスの人気を得て学級委員長に選ばれるなどして、何不自由ない学校生活を送っていました。

しかし人生の大きな転機になったのは、4年生に進級する前のことでした。
今住んでいる家を人に貸して、別の新しい家に引っ越すという話を親から突然聞かされました。
その時は新しい家に引っ越すことを考えてワクワクしていましたが、それがまさか人生の分岐点になるとは知る由もありませんでした。

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突然の転校

転校の日が近づいてくるにつれて同級生が寄せ書きを書いてくれたり、別れの言葉をかけてくれる機会が増え、段々みんなとのお別れが現実味を帯びてきました。

今さらイヤだと入っても引き返すことはできず、運命のベルトコンベヤーに乗るしかありませんでした。

転校初日

新しい学校は田んぼに囲まれた田舎の学校でした。

転校初日は担任の先生が不在であったため教室に入ってもクラスメイトに紹介されることなく放置され、担任の先生が戻ってきてようやく下校する前に紹介されるという最悪な対応を受けました。
担任の先生が不在の理由は「他の先生を車で送迎していたため」というもので、あとで理由を知った両親は激怒していました。

でも正直人生が悪い方向に流れる時って、こんな感じだと思います。
歯車が狂ったように、何もかも上手くいかないもんです。
こういう時はダメージを最小限に抑えながら嵐が過ぎ去るのを待つしかないことを私は大人になって学びました。

しかし子供の私にはこんな達観した考え方ができるはずもなく、運命に抵抗しては跳ね返され、階段を転げ落ちるように奈落の底に転落していきました。

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『過去の自分』と『今の自分』の間にそびえ立つ高い壁

転校によって多くの友達と学校での地位が失われました。
また一からすべてをやり直さなければいけません。

しかし私にとって過去の自分を越える実績を作るのは至難の技でした。
『過去の自分』が高い壁として常に私の前に立ちはだかりました。

クラスの中でどういうポジションを取ればいいだろうか。
勉強で勝負するのか、スポーツで勝負するのか。
この際前と同じことで勝負するよりも、別のジャンルで勝負した方がいいのだろうか。

そんなことを考えながら、クラスの中で自分のポジションが見つけられず周りの様子を伺っている私の姿が弱々しく見えたのでしょうか。
ある時から隣の席の女の子が僕をバカにするような言葉を投げかけてくるようになりました。

私はそれまで人からバカにされたことがなかったので、突然部屋の照明が消えたように目の前が真っ暗になり、地面が割れたようなショックを受けました。

ああ、ついに女の子にまでバカにされるまで落ちぶれてしまったのか…。

日を追うごとに昔の友達や学校生活がとても懐かしく暖かいものに感じられるようになりました。
それと同時に、そうした当たり前の日々が双眼鏡を逆さに覗いた時のように遠い景色にも感じられました。

しだいに暖かい記憶がかえって現実の惨めさを強調するような気がして思い出すのもやめました。

私は

灰色の冷たい『墓石』のような校舎に捕らえられた

一羽の『黒い白鳥』でした。


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「もう絶対に学校には行かない」と決めた朝

新しい学校は集団登校でした。
毎朝登校時間になると、同級生が玄関の門まで呼びに来てくれました。

学校に行きたくないと思うようになってからは、『集団登校の誘い』が大きなプレッシャーになってきました。

登校時間が迫ってくると気持ちが重しを吊るしたように鈍く沈んでいき、『集団登校の誘い』のチャイムの音が強く心臓を叩きました。

それが毎朝続くと、だんだん腹痛を感じるようになりました。

ある朝、どうしても学校に行きたくなかったので、トイレの中に籠城したことがありました。
その時父が「皆が迎えに来てるから早く出ろ!」とドアを拳で叩きながら怒鳴りました。
父の怒鳴り声が外まで聞こえているのがわかっていたので仕方なくトイレから出ると、突然父は私の腕を掴んで外に引きずり出しました。
そして同級生や下級生の前に引き出されました。

情けない姿を衆目にさらされてプライドがズタズタに引き裂かれ、なぜこんな目に合わないといけないのか理解できず、ただ悔しさと恥ずかしさで胸が押しつぶされそうでした。

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その出来事以来、学校に行くことを考えるよりも、休むことを考えるようになりました。

『復讐』としての不登校

学校を1週間ほど休んだある朝、学校のことで父と口論になり、興奮した父はコーヒーカップを私に向けて投げつけようとしました。
一瞬「殺される」と思った私は急いで階段を駆け上がって二階に逃げました。
父は追いつくやいなや、私の頬を力一杯殴りました。

一瞬視界が真っ白になった後、
鼻から血が流れ出し、
床を赤く染めました。

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その瞬間、今までマグマのように溜め込んでいた怒りが一気に噴き出してきて、猛烈な怒りを込めた目で父を睨みつけました。

なぜ子供の気持ちを知ろうとしないのか?
なぜここまでして子供を追い詰めるのか?

私は言葉にできない悔しさを全身にたぎらせて、流れ落ちる血を拭こうともせずただ睨みつけていました。
そして血を見て急に心配した様子を見せたり、逆に強がってみたりして動揺する親の姿を眺めていました。

この人は血を流して苦しむ姿を見るまで人の苦しみに気がつかないのか。
だったらもう我慢する必要はない。

もう学校には行かない。
自分の人生なんかどうなってもいい。
子供が学校に行かなくなることで苦しめばいい。
私が今まで味わった苦しみと同じようにお前を苦しめてやる。
自分ではどうにもできない苦しみがどんなものか身をもって知ればいい。

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それ以来、私は学校に行かなくなりました。

終わりに

以上が私が不登校になった経緯です。
この後もいろんなことが起きるのですが、また別の機会に書いていきたいと思います。

最後にひとつだけ話しておきたいことがあります。

後日談ですが、自分のやったことを反省した父は、一生をかけて私に無制限の愛情を注いで償おうとしてくれました。
私は自殺未遂をしたこともありますが、その後も生きる力を蘇らせることができたのは、ひとえに両親の愛情のおかげだと信じています。

たとえ対応に失敗したとしても、
本当に心から相手のことを想って真摯に対応していれば、
その愛情は確実に子供の心に残ります。

大人になってからもずっと残り続けます。

だから『完璧な解決策』なんてなくてもいいです。
小手先のテクニックよりも、
偽りやごまかしのない『愛情』が大切です。

それさえあれば再び絆を取り戻すことはできますし、
むしろ以前よりももっと『強い絆』が生まれます。


今回は『復讐』をテーマに書きましたが、今のわたしの正直な気持ちを告白して終わりたいと思います。

今では両親に対して『感謝』の気持ちしかありません。

『怨み』の炎が消えるほどの『愛情』を注いでくれたおかげで、
『愛情』の本当の意味を知ることができました。

そんなあなたたちのことを、
わたしは世界で一番愛しています。

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最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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