分かり合おうとすること。

国語科の教員であるということを言い訳に英語からは距離を置き続けているが、企業人時代は否応なしに英語の必要性に迫られた。

昇格要件に英語力も問われた。
しかし「英語力より営業力とコミュニケーション力」で何とかなると押し切った。
とはいえ英語はできるにこしたことはない。
英語に限らず、母語である日本語以外の言語を操れた方が間違いなく良い。だって、多くの人とコミュニケーションを図れる可能性が高まるんだもの。

しかし、あえて言いたい。

そこじゃない。と。
言語力じゃない。と。

英語ができたって分かり合えてない人たちたくさんいるじゃん。
同じ言語圏でも争ってる人たちたくさんいるじゃん。
違う言語文化を守りたいが故に戦っている人もいるじゃん。
英語圏じゃない国もあるじゃん。
話す、聞く、書く、読む。それらが難しい人たちもいるじゃん。

だったら必要なことって「言語力」じゃなくね?
と思ってしまうのだ。

だったら大切なことって何だろう。

と思っていたらこんなことを考えている人たちがいた。

『全世界共通で、あらゆる境遇の人類が共通で理解できる言語を作ってしまえばよくね?』

と。

「お---------」と唸った。

それがこれだ。


「見えない」世界や「聞こえない世界」を体感できる場所はほかにもある。

これらを体験してから、私自身は国語の授業の目的を変えた。

国語は「誰かと分かり合おうとすること」を学ぶ場だと。

分かり合えないという前提に立ち、でもいかにして誰かと分かり合おうとできるか。

そして、そのために思考を巡らせ、心と体と全部使ってコミュニケーションを図ることができるかどうか。

そこが国語を学ぶ意味なのではないだろうか。
いや、国語を通して学ぶことなのではないだろうか。

ということをイメージしてSupportiaでも授業をやっていきたいなと思う。

この記事が参加している募集

#多様性を考える

28,107件

最後まで読んでいただき、ありがとうございます! シェア、スキ、コメントをしていただけると最高の笑顔に溢れます。 サポートは心からの感謝の気持ちで使わせていただきます。