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善し悪しの正体!我が子を見ながら考える・・・。

日々、誰かの人生に寄り添いながら、
様々な人生観と向き合わせていただいてます。

心理カウンセラーを目指す職員達にも常々話す事でもありますが、
「与えるのは答えでは無く、あくまで気付きである。」
これは良いカウンセラーと悪いカウンセラーの見分け方にもなる鉄則です。

答えを安易に与える人間は、
依存関係を生み、それ無しでは生きられない状況を
相手に与えやすくなるリスクを理解していない可能性
があり、

その浅はかさは他の部分でも
恐らく、浅はかなものを持っていると僕ならば考える。

人の人生と向き合うぞ!と
覚悟を持つからには細部に渡る意識は絶対とさえ想う訳で、
(なんとも恩着せがましい態度であるからこそ・・・)
昨日、当施設を見学にいらっしゃった親子の不安感、不信感を
払拭したのはズバリ僕らのこういった理念の部分だった。

でもね・・・。

こう言う話をしながら、ちゃんと見なきゃいけないのは
僕が今している主張自体も同じ穴のムジナでしか無いって事なんですよね。
主張の仕方を間違えば、ただの価値観の押しつけでしかないって事。

例えば、その悪しきと定義付けたカウンセラーだって、
安易に答えを与えているように見えるだけで・・・
答えを与えざるを得ない状況に理由も間違いなくある訳です。

もっと言えば、

クライアントのニーズに真っ直ぐ応えている事は・・・
本当に悪なのか???

浅はかだ!と主張しながらクライアントのニーズに応えない側に
過去の経験学びからの頑なな執念のようなものがあったら?
それは答えを与えない姿勢自体に個人の課題も見えてくるだろう。

子供の人生と向き合いながら、様々な未来を想像する。

例えば、学校で虐められたら・・・?

虐めを行う存在は悪!虐められた我が子は善!
そう安易に決めつける事も危険である。

何故なら・・・

虐めを行ったのが自分の子であった場合・・・
何故そんなことをするのか?理由も含め知ろうとする、
反省も含め、学びの場にしようとしたりするのが親の姿勢だろうから・・・

前者の我が子が被害者!っていう時より
だいぶ、こちらの姿勢(初動)が変わってくる。


例えば、そこにごもっともな理由があったりなんかしたら・・・
(実はそいつに虐められてて、抵抗の結果、逆転した的な・・・)

もはや何が悪で、何が善か・・・

語る事自体が浅はか過ぎるというか・・・

明らかなる悪しき親の姿勢が見えてくる。
(相手に対して不平等な・・・ね。)

しかし、それさえも善悪で語るべきものではない。
親として自然!って言えるものでもあるからね。

その家族の慣習、その地域の風習、その国の文化、時代の常識、
色んなもんの中で一応、正義や悪が決められてはいるが・・・

それらが変わればそんなもんは簡単に壊れる。

それが善、悪なんですよね。

だからそれを主張する事は、出来る限りない方が良い。
(人殺しだって時代が時代なら正当化出来た訳で・・・)
  ↑ あ、容認したって意味じゃ無いよ?

年が変わる度に大地震が起こる!と危機感の喚起を行う人達も
コロナ禍における自粛の呼びかけやマスクの有無のどうのこうのも、
障がい福祉の世界なんてそんな主張の横行が目立つ世界でもあるし、

別に目の前にある事が善か悪か・・・なんて関係ねぇ!ってところで、
自分の信念だけ、それを信じてくれる周りと共に・・・
来る者拒まず、去る者追わず、他国を侵害せず、自国を侵害させず、
そんなもんでいいんじゃねぇの?って話。

あ、

子育てにおける善悪の話ね。

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