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「これからの『正義』の話をしよう 〜いまを生き延びるための哲学〜」を読んで

更新がだいぶ遅れてしまいましたが、サボっていたわけではなく、単純に読んでいた本が非常に長編だったため、更新が遅れてしまいました。

だいぶ前に話題になった本で、これまで読んでいなかったが、たまたまブックオフで見かけて読んでみた。
ページ数が非常に多く、読みごたえのある本だが、中身は極めて濃密で、冗長なことは一切ない。
正義という切り口で様々な社会問題を見つめ、現代社会にいる私たちが必要となる考え方について適切に解説をしてくれている。
数学のように決して正解がない「正義」というテーマのため、当たり前だがこの一冊を持って全てを理解できるわけではない。
ただ、そうした正解がない状況というものはビジネスの世界に通ずるものがあり、そうした中で自分でどう判断するのか、という軸(例えば共通善)を持つことは非常に大切なことだと思う。
ビジネスパーソンの一般教養として賞賛される良書だった。

ここからは、この本から個人的に感じたことについてさらに深く述べたいと思う。
著者が述べていた、大学入学におけるアファーマティブ・アクションと絡め、とある大学の入学試験に関わるスキャンダルについてである。
(私の記憶が正しければ、だが)数年前にとある大学で、入学者を決める際に、男子学生の受験者を優先して合格させていたため、女子学生は同じ学力を持っていたとしても不合格にされていた、という事件があった。
当時はマスコミからも「本来公平であるべき試験を曲げた由々しき事例」としてだいぶ叩かれていたし、いまだに私自身もあってはならないことだと考えている。
確か、当時大学は、非を認めつつも「男性の方が社会に出て活躍する年数が長いため」といった説明をしていたと記憶している。
つまり、大学側の「正義」とは「公民的に、社会全体を中長期的に見た時の最善手」が、「テストの結果を捻じ曲げてでも行うべきこと」だった、ということなのだろう。

そう解釈すると、確かにこの事例は許されたことではないが、問題の本質は「女性が社会で継続的に活躍し続けることが難しいこと」でもあると思う。

良い事例なのかは不明だが、このように、正義とは見方や観点を変えれば大きく変わってくるものであり、人やコミュニティによって様々な解釈が存在するものであるのだと思う。

まずは相手の持つ正義を理解し、受け止める、その上で時には積極的に話し合う姿勢が必要なのだろうと感じた。
そうした行動を通して、自分の正義を常にチェックし、必要に応じてアップデートしていくことが、私たちには必要なことだと教えてくれた本である。

以下、ネタバレを含む読書メモである。
(私の知識では結構難解なところもあったため、理解が間違っているところがあるかもしれない点はご容赦ください)

第1章 正しいことをする
• 正義をめぐる古代の理論は美徳からスタートし、近現代の理論は自由からスタートすると言える。ハリケーン後の便乗値上げに関する議論も、経済を美徳から見るのか、自由から見るのかが論点になる。
• リーマンショックを引き起こした原因でもあるアメリカの金融・保険業界。それらを公的資金で救済したが、その幹部たちに多額のボーナスが支払われていた問題。
ここに関わる正義とは、「強欲」と「失敗」。
強欲批判の問題点は、救済措置中に与えられた報酬と好況時に市場から与えられた報酬を区別しないこと。そこの根底にあるのは、「失敗に対する報酬」、これが人々の怒りの本質。
ただし、当事者のCEO達目線で言えば、当時の金融危機は津波のように押し寄せてきて、どうしようもできなかったもの。
• この本で取り上げるのは、正義に関する以下3つのアプローチ
1.福祉の最大化理論
経済的繁栄が重要なのは、それが人々の幸福に貢献する、功利主義の考え方
2.正義を自由に結びつける理論
正義とは自由及び個人の権利の尊重を意味する、普遍的な人権の尊重を意味するという考え方
3.正義は美徳や善き生と深い関係にあるとする理論
正義にかなう社会ではある種の美徳や善き生の概念が肯定されるという考え方
• 正義に関する自分自身の見解を批判的に検討すること。そして、自分が何を考え、またなぜそう考えるのかを見極めること。

第2章 最大幸福原理 功利主義
• 海を漂流していた人間4名が1人を殺し、それで飢えと乾きをしのいだ事件。
・3人を救うために1人を殺す必要があったと言う主張
→反論。
 雑用係を殺すことで得られる利益は全体としてそのコストを本当に上回るか
 コストと利益の計算を超越した社会的理由から正しくないのか。
この事件が与えるものは、
「道徳とは命を数え、コストと利益を天秤にかけること」か「道徳や人権は基本的なものであり、そうした計算を超越したもの」か、ということ。
• ジェレミー・ベンサムの功利主義。効用最大化を拒否する根拠は一切なく、あらゆる道徳的議論は暗黙のうちに幸福の最大化に依拠せざるを得ない。
物乞いを救貧院に入れ、そこで働かせて出た利益をもって救貧院を自立運営させる仕組み。一見ひどい提案のように見えるが、社会全体の効用を減らす問題を解決することで、全体的な福祉の増進を図ったものだった。
→反論①個人の権利
 功利主義の最も目につく弱みは個人の権利を尊重しないこと。品位や敬意といった基本的規範と考えるものを侵害するような人間の扱いを認めることになりかねない。
拷問を支持する議論は功利主義から始まる。容疑者に苦痛を与えてその人間の幸福や効用を著しく低下させる。ただ一方でその容疑者が仕掛けた爆弾などが爆発すれば大勢の人々の苦しみが生まれてしまう。
例えば、罪もない1人の人間の犠牲によって何百万という人間の幸福が手に入るとして、それを享受できるか、という問題も功利主義に対する反論になる。
→反論②価値の共通通貨
 全ての価値を1つの価値の共通通貨で捉えることはできない。
 例えば、タバコ税をあげると喫煙者が減って公的健康保険料は下がる。ただし喫煙者が減って国民が健康で長生きになることで、他の社会保障費が上がる(功利主義による費用便益分析)。この考え方は道徳的には愚かなものと批判された。
 このように、功利主義に対する反論の中には、「命の値段」に関わるものがあり、命を通貨という別の価値に置き換えることはできない。
• 自由擁護論という考え方がある。これは、長期的視点に立てば、個人の自由を尊重することが人間の幸福を最大化することにつながる、というもの。
例えば、非国教徒の口を封じたところで短期的には効用は最大化するが、長期的に見れば社会全体は悪化する。
なぜなら、一部の少数意見を潰してしまうことで、多数派の意見の間違った部分を修正する機会を奪ってしまう、ということ。慣行・因習・有力な意見に従って暮らすよう人に強制することは誤りであり、それは人生の究極の目的である「人間としての能力を完全かつ自由に発展させること」の達成を妨げてしまう。
• 快楽には質の良し悪しがあるという考え方もある。例えば闘技場の観客が求める快楽は劣悪なもの。この良し悪しを図るためには、天秤にかける2つの快楽の両方を経験したもののジャッジによるもの。
ただし、時に人は道徳的に質の高い快楽を必ずしも求めるわけではない。例えばホームコメディとシェイクスピアでは、快楽を感じる人はホームコメディの方が多い。
そのため、快楽の良し悪しは必ずしも願望や欲求だけではなく、人間としての能力にどこまで訴えるかが基準ともなりうる。

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