幸福だと思ってみたい―『自殺』末井昭(2013年)
(2,449文字)
ノンフィクション作家・河合香織の『絶望に効くブックカフェ』(小学館文庫/2017年)で紹介されていて、ずっと死にたいと思っていたので購入した。文庫本はなく、買うのに逡巡したが、その迷いがめぐりめぐって私を死にたくさせているのだ。
小学校にあがったばかりの頃に母親が自殺した話
青木ヶ原樹海で仕事をしている人の話
両親が心中した女性へのインタビュー
お金と自殺について
最後の「迷ってる人へ」など、18章からなる。
簡潔な文章。何より印象的なのは、母親のダイナマイト心中を書いている箇所ですら悲壮感がないところだ。
この本は「頑張れ!」も「負けるな!」もない。自分がどれだけ葛藤したか、苦しんだか、孤独だったかがほとんど書かれていない(ように思う)。
生き残ったからかもしれない。そして、作者自身はもう死のうと思っていないからかもしれない。
私はこの本で生きる方法を見つけようと問いをたてて読んだ。
私は自意識が強い。自分のことしか考えていない。自分のことばかり考えていると暗くなるし不安になる。自分のことだけだからこそ孤独になる。(でも、いったい誰のことを考えればいい?)
一番興味深く読んだのは、両親が心中した女性・青木麓(ふもと)さんのインタビューだった。(「残されたもの」P.75~104)
二人の遺体を見たときお姉ちゃんと笑い続けたというのがすごくリアル。葬式でも「ウケるよね」と言って、火葬場の演出を滑稽に思ってる。当事者でないと出てこない仕草だろう。
両親の影響で、自分も自殺するんだろうと思っていたが、荒木経惟に遺影を撮ってもらおうと決めた先で出会った人たちの輝きによって「生きていけるんじゃないか」と思ったそうだ。「人生素敵なこともあるんだと思って」。
素敵なこともある―そうなのだろうか?
その後、イベントを企画して彼氏となる人と出会っている。
彼女は決してポジティブな人ではない。「見捨てられるのを極度に恐がる」と話しているし、暗いことも言う。でも、自殺はしない。病気や事故の方が怖いと話す。
「これからもっといろんな人と知り合いたいし、見たい」と話す彼女は、また落ちてもきっと帰ってこれるだろう。羨ましいが、羨ましいけれど、それならもしかしたら私にもなれるかもしれない?
富士の樹海に行ってみたいと思ったことがある。本気で死にたい人と自分の違いを感じ、死にたい気持ちを諦めたかったのだと思う。樹海を歩く仕事をしていた人にこんな言葉があった。
アルコール依存症・自殺未遂を繰り返してきた月乃光司さんのインタビューも興味深い。「ストップ!自殺~それでも私たちは生きていく~」という、そのまんまな名前のイベントを主催していて、毎回大盛況だそうだ。
月乃さんの来し方がめちゃくちゃなのだが、人生を「振り返られている」のがものすごいことだと思う。私は故人の略歴を読むのが好きなのだが、それは、人生が苦悩に満ちていても、ノイローゼになっても、たとえ最後が自殺でも、かならずみんな亡くなっているからだ。「その苦しみは3年後には終わるよ」と慈しみの目で見られる。私も絶対にいつか死ねる。
だが、生きているうちに自分を振り返ることができたら、それは死だけにゴールを見出さないようになれたということだ。
この人の最後の言葉に肯かざるえなかった。
「うつと自殺」で、鬱病を罹患しているくらい陰気な日々のなか、筆者の末井さんはブログを始める。些細な内容でも、自分を客観的に見ることができたために、自分をもう一人の自分として見る目が養われ、少しずつ立ち直ったという。
末井さんは言う、「自殺まで考えている人は書くことがいっぱいあるはずです。」
私も末井さんの教えてくれたように、書くことで自分を発散させたいと思った。それで今私はnoteを書いている。
「不思議なもので、自分を肯定できると、相手のことも肯定できるようになります。」
「自己嫌悪は、自意識が作り出したブラックホールのようなものです。」(P.262~263)
私の自意識の強さは希死念慮を生み出す。私は生きたいのだ。ただ、“よく生きたい”がために、そうできてないことに絶望してすべてを諦めようとしているのだ。
末井さんも月乃さんも麓さんも行動している。
私は死にたいと頻繁に思うが、自殺しようとは思わない。結局はそれも“行動”だからだろう。
意識を外に向けて、興味のあることはして。諦めずに…
月乃さんのように、あのときは大変だったなと振り返りたい。生きてて良かったと思えることがいつか私にも見つかるように。月乃さんの言う「着地点」が私にもありますように。
(2021年・文 ノートから修正、転記)