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自己肯定感と、精神の自立

私たちは何かと接触するたびに、「好き」「嫌い」を感じながら、選びながら生きている。

「嫌い」は不快だししつこく付き纏って自分を苛むとても厄介な感情だ。できれば抱きたくないし、関わりたくないとすら思う。

でも、「好き」という感情だって、ハッピーな感情のように見えて、実はプラスにもマイナスにも働くよね。

好きってブレーキをかけないとどこまでも大きく重く膨らむし、一歩間違えると心全部を壊してしまえるほど危うい感情だ。

ちゃんと手綱を持っておかなければ暴走して自滅したり、時に他人を巻き込んで大惨事を起こしかねない厄介なものなのだ。

それがこわいものだと知っているから、わたしは適度に感情を薄められるように好きなものや人は複数持つよう心がけている。

感情を自立させて、誰かに振り回させない。


これは自己肯定感の話にもつながるんだけど、個人的に「好き」(もしくは「嫌い」)という感情を自立させることは、幸せになる上でとても重要なことだと思う。

私は自他共に認める自己肯定感が馬鹿高い人間なのだが、私にとっての『自己肯定感が高い』状態って、自分に自信を持っていることでも前向きであることでもない。

“精神的に自立した状態”だ。

精神を自立させる。 
その延長線上に、感情を自立させることがある。

今の私は自分のことが大好きだし、大事に思っているが、昔は別に自分のことなんか好きじゃなかったし、どちらかと言えば常にマイナスなことばかり考えていたような気がする。

誰かが近くで悪口を言ってるのを聞くと、「自分のことなんじゃないか」って必ず不安になったし、「あの言い方はまずかったかな」と夜寝る前にその日1日の1人反省会をして頭を抱えた…なんて経験は1度や2度じゃない。


それでも、「好き」や「嫌い」という感情はわりと小さい時から自立していたような覚えがある。


小学生の頃、「〇〇が私のことを嫌いなようだから、私も〇〇のことが嫌いだ」みたいな風潮があった。私自身は「向こうが私を嫌いだったとしても、私が嫌いにならなきゃいつかは仲良くなれるかもしれないじゃん?」というスタンスだったから、それがとても不思議な風潮に思えた。


嫌われたら嫌い返すということに対して、多少は理解できる。
嫌われたら悲しいし、いい気はしないだろう。嫌われてる相手と仲良くしなくたって、地球上にはいくらでも人間はいるしな。

でも、何も「嫌い」という感情まで相手に合わせて変えなくてもいいのでは?と思うのだ。


「好き」という感情にも同じことが言える。
私はこれまで、親しい人に対して「好き」「大切」はなるべく口に出して伝えようと意識して生きてきた。

相手に「君が好きだ!大事だ!」というのを伝えたくて仕方ないのもそうなんだけど、何というか、言葉にすることで自分の中の「大事にしたい」が明確になる感じがして、それがけっこう嬉しい作業だった。

伝える中で、向こうも私を好きだと思い大事にしてくれたら御の字だが、相手を好きだと思う自分の気持ちが重要なのであって、相手から感情のお返しはあまり期待はしていない。私は私で勝手に好きでいるので、あなたも勝手にしてくれ、と思っている。

それは推している人間に対してもそうだ。
漫画のキャラクターやアイドル、バンド、羽生結弦くん。

彼らは私にとってかけがえのない宝物だが、自分の好きという感情に対して向こうから何かお返しがほしいかと言ったら違う。

好きって感情を抱かせてくれただけで感謝してるし、彼らには未来永劫、幸福と安寧が降り注いで欲しいと思う。

見返りはあってもなくてもかまわない。

そういう考え方だからこそ、好きな人やものと上手くやれてるんだと思う。

自分の感情を肯定すること



好き嫌いの気持ちの分量を誰かと釣り合わせようとするのは、かなり難しい。大抵どっちかに多少傾くものだ。

中でも、自分は好きなのに、相手には嫌われている・何とも思われていないというのはとても虚しく辛い。

「好きになってもらえない」
「なんだか嫌われている」

って、すごく悲しいことだ。

だからこそ、相手に期待し過ぎてはいけない。
見返りがなければ揺らぐ感情を持っていたら、相手がグラグラ傾くたびにこっちもユサユサ揺れてやらなきゃいけない。そんなの大変だ。

「私は××してあげたのに、なんで〇〇は△△してくれないんだろう」

なんて思うのは、浮かばれない。

バレーボールに例えると、サーブを打って、レシーブして、アタック…球の勢いが技によって変わるように、人の気持ちだって勢いがついたり衰えたり…あるいは、吸収されたり地面に落ちたりするのだ。


たまに裏切られた相手に対して「見る目がなかった」と言っている人がいる。

それって、自分の感情に対して失礼じゃないか?
どうせなら、「最終的には上手くいかなかったが、その人を信じたい、好きだと思えた気持ちだけは大事にとっておこう」と思った方がいい。どんなに悪い人だったとしても、その人を好きになった自分の気持ちに罪はない。誰かを好きになれたこと自体は幸せなことだ。頑張ったねと労って次に進もう。

好きも嫌いも、自分で肯定してあげられたら少しずつ自己評価があがっていくはずだ。

たまには他人の力も借りたっていい。
自分ではコンプレックスに思っていることも、誰かの目を通して見たら長所かもしれない。自分で気づけない魅力は他人の目を頼ろう。 

勝ち負けが決まった先でまた勝ちを探す


自分の感情を肯定できたら、随分気持ちが楽になるはずだ。

失敗しても、うまくいかないことがあっても、

「私ってだめだな。しんどい。…まぁでもいつも頑張ってるじゃないか。おつかれ。反省点は分かったし、あとちょっとだけ頑張ろう」

と思えたり、またチャレンジして、失敗して、

「うわぁ…何回おんなじ失敗するんだよ。本当に無能だな。うんざりだ。…でもまだ進化ポテンシャルが残ってるかもしれない。また頑張みるか。いや、取り敢えず昼寝してから…」

って自分で自分の感情を一つずつ丁寧に評価していく。
己の感情を無視しない。

好き、嫌いを尊重してあげる。
優劣だけで判断しない。

上手くできた/できなかった
いい成績を修めた/修められなかった
容姿が優れている/優れていない
上手くコミュニケーションできる/できない

それだけがすべてじゃない。
もし仮に「だめだ」と思う部分があったとしても、ダメの中で評価できる所を探そう。



中学時代、受験に失敗した男友達がいて、「何で上手くいかなかったんだろう。落ちたのに全然諦められない。どうやって諦めればいいんだ」と言われたことがある。

彼は、落ちてその高校に行けないことが”負け組”でダメなことだと思っていた。

彼は勉強をとても頑張っていた。
列を挟んで隣の席の彼が休み時間も友達と問題の答え合わせをしているのを私は知っていた。
受験に受かる/受からないのみで彼の勝敗が決してしまうのはとても勿体無い気がした。

“諦めたらそこで試合終了だよ”


不意に『スラムダンク』の有名なセリフが頭をよぎる。

「負けたんなら、次勝てばいいじゃん」

私はそう言った。
負けて進んだルートの中で、勝ちを探していけばいい。

選んだルートの中で、勝ちを探さず悲嘆に暮れる。それがいわゆる負けの状態なのではないか。

勝ちなんてそこらじゅうに転がっている。わかりやすい勝ちにはみんな群がるから、負けたとき自覚しやすいけど、そこから負け続けるか、諦めずに勝ちに行くかは自分次第だと思う。

自己肯定感はうまくできたこと、優秀なこと、自信を持つことだけで培われるのではない。自分の感情を一つずつ肯定し、無視しない。負けたとしても勝ちを探す。そういったところに兆しがあると思う。

人を無視するのはあまり良くないことだと誰もが知っているのに、何でみんな自分のことは無視してしまうんだろうね?

「無視」ってしんどい。
蔑ろにされたり、放置したり、無いものとして扱われ続けたら、自分だってかわいそうだ。

多分「自分を大事にする」って、自分の気持ちを無視しないことなんじゃないかな。

みんなの自己肯定感が無理せず楽に高まっていくことを願う。

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