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2023/6/11(日) 日記を読むこと、日記を書くこと。『日記を読むおもしろさ』滝口悠生(著)を読んで。

というサイトを最近発見した。色んな連載や対談インタビューなんかもたくさんあって、とてもおもしろそうである。


その中で、《考える四季》の6/8の回が、滝口悠生さんの記事だった。
『日記を読むおもしろさ』
そのコラムのタイトルはまさに、わたしが今ひしひしと感じていることだった。

日記を読むのはおもしろい。そこには自分とは違う他人の生活の様子が記されている。他人の生活の様子なんか知ってなにがおもしろいんだと思う向きもあるだろうが、日記を読むのは他人の生活を「知る」ことではない。他人の生活を「読む」ことが、日記を読むおもしろさだ

《考える四季》『日記を読むおもしろさ』滝口悠生(著)より引用

わたしはどちらかというと、「他人の生活を知ることができる」のがおもしろいと思って読んでいた。しかし実際に、自分がこまめに日記を書くようになってからは、「こんなしょうもないことばかり書いて、おもしろくないんじゃないか」とか「なんのために日記を書いているんだろ」とか、終始疑問を抱えたまま書く日々が続いていた。そんな中で読んだこの記事にわたしは、はっとさせられた。

読み物としての日記の醍醐味はむしろ見知らぬ他人の退屈な一日を読むことにこそあると思う。

そこに記されている出来事の多くは、特筆すべきではない出来事である。わざわざ書き残すほどのことでもないことを書き残そうとする、その矛盾的な作業に向き合うとき、ひとは「書く」ことについてあれこれと考えざるをえない。なにを書いて、なにを書かないのか、そしてどう書くのか。日記には、書き手が自分の経験と言葉とのあいだに結んだ関係の形が表れる。日記を読むということは、その関係の形を読むことでもある。

ともあれ書かれている出来事だけ見れば平凡で退屈な出来事だとしても、そこにはその日記の書き手がその出来事にどのような輪郭を与え、どのような手つきで言葉にしたのかが見てとれる。そして、言葉にされた出来事は、もう平凡でも退屈でもなく、なにかしらの特別な出来事になる。どんな出来事も、書かれてしまえば、それは特筆すべきことになるのだ。

《考える四季》『日記を読むおもしろさ』滝口悠生(著)より引用


なるほど。納得させられてしまった。
自分の日記を振り返って読むとき、大したことしか書いてないなあ、と思うことも多いのだけど、そんな文章でも、そこにいたるまでには膨大な時間とたくさんの取捨選択があるのだ。当たり前といわれれば当たり前なのだが、どうしても出来上がったものだけを見て評価してしまう傾向にあり、それは何においてもそうだし、どうしようもないことなのだが、この滝口さんの記事を読んで、日記には「書き手が自分の経験と言葉とのあいだに結んだ関係の形」を読む、という読み方もあるのだ。なるほど。救われた気持ちになった。、滝口さんのその言葉にぱあっと目の前が開けた気がした。

そういうふうに書かれた他人の日記を読むことで、読み手にも変化が起こる。読み手の日々のうちにある平凡で退屈な、特筆すべきでない事ごともまた、書かれうる対象として見直されてくる。他人の日記を読み、他人の生活を読むことは、自分の生活に新たな意味や価値を見出すことにもなる。

《考える四季》『日記を読むおもしろさ』滝口悠生(著)より引用

わたしもそう思いながら、他人の日記を読んでいるし、日記を書いている。そして、わたしの日記が少しでも意味あるものになれればうれしいなあと思うのである。


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