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nina3word / 膝小僧 / 鉄火肌 / 規格外 /


 術后2日目だというのに腹の傷はなんと痛いものであろうか――。
 それなのに担当の看護師が来るたび、笑顔で「癒着《ゆちゃく》しないように出来るだけ病棟内を歩いてくださいね」なんて非情なことを言ってのける。
 こんなに痛いのに徘徊しろと言うんだから、白衣の天使は無情にも等しい。
 想像すらしなかった痛みだ。
 チリチリと焼け付くような痛みと引き攣るような痛みが、波のように交互に寄せては返し寄せては返し、私の精神を翻弄する。
 たかだか2センチ程の傷跡が3箇所。もう一つの穿《うが》たれた穴は臍《へそ》からだが、傷跡には見えない。腹腔鏡《ふくくうきょう》を使った術式は、開腹するよりダメージも少なく傷跡も大きくはないはずだった。
 それでも、6時間毎の間隔で薬効も切れてくる。
 痛み止めのロキソニンの効き目が切れかけ、心臓の鼓動が腹の内側で感じる頃に、四人部屋の一人が、水色のストレッチャーに乗って戻ってきた。

「おかえりー」

 誰が決めたわけではないのに、手術室から戻る者を起きて部屋にいる者が、無事に帰宅を望む母親のような面持ちで声をかける。
 その時は、少しだけ痛みが飛ぶ。
 身体を結ぶ繋がったたくさんの管、頭上には点滴のパックと黄金色の小水が入った導尿パックが、青白い顔色をこちら側の現実に引き戻す唯一の方法に思えた。
「せーの!」
 看護師が2人がかりで、威勢の良い掛け声と共ともにベッドメイキングの施されたベッドに肢体を移動させた。落下防止用の手摺《てすり》をベッドへ固定し、患者名と担当Dr.が記載した紙片をヘッドボードの名札に差し込む。目配せしてから看護師の一人が部屋を後にした。
 残った看護師は、手際よく導尿パックをベッドの淵に固定させ、点滴パックをスタンドに掛け替える。顔の近くに、ナースコールのブザーを置き、ポトポトと落ちる一滴のリズムを目視したのち、布団を胸元までそっとかけると、慌ただしく部屋から出て行った。
 まだ麻酔が抜け切らずに、あどけない顔の若い娘がよく眠っている。
 昨日の私だ。こんなに若くはないけど。

「おかえり、玲香《れいか》ちゃん」

 手術前日は手術前診察があったり、入浴や剃毛、薬剤コントロール、下剤服用、絶飲食と点滴が始まる。バタバタと忙しくしているうちは何も考えず敷かれたレールに乗っていればよいのだ。
 しかし、ぽっかり空いた隙間の時間が心細さや、寂しさを連れ立って呼ぶ。
 満たされぬ思いを甘い物や食べ物で晴らそうにも夕方以降は絶飲食が待っている。
 これが地味に苦しい。
 ベッドとベッドを区切るパーテーション越しに、夕食の配膳から美味しそうな匂いが漂い、咀嚼音、食器が奥歯に触れる小さな音、熱いお茶を啜る音、イヤフォンから漏れるテレビの音声、日常というものは、こんなにも音が溢れ、色が滲んでいるのだと、嫌でも気が付いてしまう。
 思い返せば、大きな病気だって今までした事がない。怪我と言っても、膝小僧を擦りむいたくらいの怪我しか経験がなかった。
 当たり前のように結婚をし、子供を授かって育児をし、ママ友をつくり、ランチをしながら、ありふれた毎日を過ごす、そんな生活が “当たり前に” 訪れると信じて疑わなかったというのに。
 子供ができないばかりか、なおかつ不妊症の原因が私自身にあって、姑を筆頭に嫌味を散々と言われ、話し合いもそこそこに離婚に至るなど思いもよらなかったのだ。
 窓際のベッドに腰をかけ、カーテンの隙間から暗くなった外をぼんやり見つめていると、食べ終えた始終ニッチキャップを被った小太りの隣人が話しかけてきた。
「手術、明日よね? どこ切るの~?」
「チョコレート嚢腫で(子宮)全摘《ぜんてき》です」
「あら、まぁ、まだお若いのに。始めて聞いたわ。美味しそうな病名だこと」
 あっけらかんとした受け答えに、苦笑するしかない。
「夜ご飯食べたばっかりなのにねぇ」
 そう言って、愛嬌のある顔で舌をぺろっと出した。
 50代半ば、ちょうど母親と同じぐらいの年齢だろうか。
 名前を増田さんと言った。
 毛髪が抜け透けた地肌が見えぬように、派手な綿の帽子で隠しているのだろうと思ったので、私は病名を聞かないようにして、なるべく記憶にも残らないくだらない話をして消灯までをやり過ごした。
「消灯時間ですー。おやすみなさいー」
 夜勤の看護師が各部屋に声をかけ、廊下に繋がる油圧式の扉を閉める。
 徐々に暗闇に慣れた目で、距離感のない個性のない天井を眺めていた。
 一昨日に手術した斜め向かいの隣人から、呻き声が、まんじりともしない夜更けに響いていた。
 痛さなんて他人にわかるものか。
 わかってたまるものか。


                 ◆◇◆


「玲香ちゃん、どこ切ったの~?」
 青白い顔色は随分と血色良くなり、蓋付きのマグカップを手に持ちお茶を汲み、お腹の傷を庇うようにしてこちらに歩いてきた。
「私は筋腫です」
「摘出したブツ見せて貰った?」
「ふふ、ブツって……」
「あ、写メ撮ってもらいましたよ!」
「見ますー?」
「うわ、粒々がいっぱいあるね」
 画面には、ぐにゃぐにゃぶよぶよとした複数個の球状の赤茶けた肉片が映し出されていた。
「うわ、見せて見せて」
 いつの間にか増田さんも輪の中に入ってきた。
「お腹の中にこんなに入ってたの?!」
 増田さんは目を丸くして驚嘆の声を出した。
 玲香ちゃんがスッキリとした顔で笑う。
「ね、ね、チョコレート嚢腫は撮って貰いました?」
「うん、見る? 規格外だって、さー」
「14cmだってさ、凄いね、もう片っぽは8cmだった」
 スワイプを繰り出す指先から映し出された日常が鮮やかに飛んでは通り過ぎていく。
 膿盆《のうぼん》に乗せられた、ぷっくりと赤黒く腫れた血塗れの肉片。
 摘出した病変部の大きさを測るスケールが横に並べられている。
 ふてぶてしくも、何者にもなれなかった何か――。
「わお、これ? 大きい!」
「チョコレートに似た色してるからチョコレート嚢腫なのかねぇ?」
 その後に撮られたもう一枚を見せる。
 ぱっくりと切り開かれた肉片から、どろりとした中身が覗いている。
「……これ、髪の毛と骨?」
「骨、歯、象牙質だって医師《せんせー》からは言われました」
「卵子って卵なんだね、びっくりだ」
「規格外のチョコレートなら良かったのにねー」
「ねー」
「あはははは」
「そうだ、お見舞いで貰ったGODIVAのチョコあるけど、食べる?」
「え、いいの? 食べる食べる! 頂戴♪」
 四角いカーテンで遮られた四人部屋は、会話の内容は別にして音だけを聞けば、さながらカフェの一角だ。
「よくあんな写真見た後にチョコ食べる気になるもんだよね~」
「うっ……」
「笑かさないでよ、イタタタタタタ…」
「女って強いよね」
「ホントにね」
「ホント〜(笑)」
 底抜けに明るい隣人達の言葉に救われた気がしたけど、口にしたチョコは少しだけほろ苦かった。


                 ◆◇◆


 傷を癒すのは、真っ暗闇の夜が似合う。
 ひっそりと静まり返った病棟にひとときの静寂。
 床だけをぽわっと誘導灯が照らしている。
 今夜も当直の看護師が小さなペンライトを片手に巡回すると、鉄火肌の、かつては娘だった者達も穏やかに安らかな寝息を立てていた。

                   了


〈 膝小僧 〉
〈 鉄火肌 〉
〈 規格外 〉

#nina3word #nina3word20170911


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