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夕闇通り七番街、店名は「深淵」でス。- 番外篇 -

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夕闇通り七番街のシャッター閉まった細い路地裏、4649歳のマスターのお店。
店名は「深淵」でス。

・小雨降る夜にだけ開店致しまス。
・不定期でシの朗読会が行われていまス。
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 小雨か霧雨、か。
 夕闇に包まれた頃に、小さな折りたたみ傘の雨粒を軽く払い除ける音がしてから間も無く、重く黒い扉が開いた。

 そこは『 深淵 』
 ―――いらっしゃいませ。

 白髪混じりの少なくなった頭髪に、白い髭を豊かにたくわえ、銀縁の眼鏡。目尻の深く濃い皺。浅黒い肌に点々と染み。
 キャサリン・ハムネットのアースカラーのトレンチコートを端正な顔立ちの女性バーテンダーが預かると、その男を優雅な手つきで客もまばらな店内奥へと促した。
 スーツの左胸には生態系を模したロゴマークのピンが、吊るされたシャンデリアに反射して輝いている。
 小柄で動きが機敏な白い髭の男は辺りを見渡すと、カウンター席の端へと座った。

「マスター、過ぎ去りし夏の1杯を」


                 ***


 
 研究所の非常口から出て数百メートル先、池の畔一辺をビオトープにすると決めた。
 bio(命)topos(場所)
 そう、太陽が燦々《さんさん》とした暑い夏の日に。
 境界線に看板を立てようかとも考えたのだが、騒々しい者達が興味本位に侵入し荒らしてしまっては秘かな研究に支障がきたる。
 また私の意思を理解する者に打ち明け協力を仰ごうかと考えもしたが、大きな意味のもたらさない事象には行動が伴わないことも、私は重々承知していた。

 池には空から降り注ぐ太陽エネルギーが、水中の植物プランクトンの光合成を促しては動物プランクトンがそれらを食《は》む。
 また水面には私が生まれる前から自生する水生植物、例えば花菖蒲《ハナショウブ》、芹《セリ》、木賊《トクサ》、香蒲《ガマ》、葦《ヨシ》、蓮《ハス》などがひしめき合い、田螺《タニシ》や目高《メダカ》、蛙、それに今では絶滅危惧種になった鱮《タナゴ》などが集い、多種多様な食物連鎖をまざまざと私の眼に見せつけるのだ。
 見える世界と見えざる世界。
 お互いを拮抗しつつも並列した、絶妙なバランスで成り立つ共棲された世界がただ目の前に拡がっている。
 どの者も捕食者であり、また被食者でもある。
 生きとし生けるものが息を潜める上空には蜻蛉《トンボ》が飛び交い、それを摘む鳥達、様々な虫や生き物がその恩恵にあずかり、そして長い歳月をかけ、豊穣なる土を生む。
 灼熱の太陽光線も木々に阻まれては温度を落とし、ひんやりとした草の上には数々の蝉の抜殻が転々としていた。



『 蝉は偉いなあ
ちゃんと脱皮する
僕は抜殻そのもの 』


「自分の事を、蝉の抜殻だと云った少年がいましてね」
「何故か無性に腹が立ちまして。年甲斐もなく」
「そういった事に年齢は関係あるのでしょうか。4649歳の私は一体どうしたら…」
 マスターがそう言って、破顔した。
 まさか目の前にいる御仁がそんな年齢であるはずもないのは生物学者である私が一番知り得ている。マスターなりのリップサービスなのだろう。
「抜殻が本体そのものになりうる事は自然の摂理では有り得ません。必ず、美しく羽化したものが在るはずなのです」
「もし、羽化に失敗したとしても」
「抜殻も蝉退《ぜんたい》という漢方薬になると聞いた事がありますね」
「ほう、よくご存知ですな」
 マスターの流れるような所作を目で愉しんでいると、女性バーテンダーのアイスピックで氷を刻む音とマスターのシェイカーを振る音が、まだ人の少ない店内に小気味よく響いた。
「ラムとグレープフルーツジュースのフローズンカクテルです。ブルーキュラソーで色づけしております」
「ほう、綺麗な色だ。カクテルの名は?」
「蟬時雨《せみしぐれ》とでも」

 一口含むと、余韻を愉しむように舌に絡ませ転がしてから、満足そうに喉に流し込んだ。

「蝉の羽化を見たことはありますか?」
「いいえ」
「昆虫が好きでしてね、虫取り網と籠を持って自転車で森に行きましてね」
「勿論、親には内緒で。後でこっぴどく怒られましたが」
「そこで、ね、見たんです。もうそりゃ、蚊に食われるのも忘れて」
 マスターがフルーツの皮をナイフで剥きながら耳を傾けていた。
「ちょうどこの蟬時雨と同じ色の羽でした」

 木々の太い幹にしがみつく様《さま》を。
 拡げた羽が透けるような清らかさで。
 殻を破る細やかな音が息を殺した森の奥で反響し、0が1になる瞬間を。
 ぽわっと暗闇の中で仄かに青白く放つ無数の光は、確かに生命そのものの色だった。

「ご馳走さま」
「朗読会に参加しませんか? まもなく始まると思いますが」
「いや、結構、そういったのは苦手でして。それに今夜は帰ってまだやる事が残っとるんです」

                 ***


 
 蝉の一生分の鳴き声が耳の奥にまだ残っている。
 それから血潮に蓄積されていく、殻を破く時に生じる小さな羽音が。
 研究所に戻って、cm²毎に落ちた蝉の抜殻と羽の数を集計したい。
 種類を分類して記録しておきたい。
 それをいつか、少年に視せたい。

 鈍い扉を開けると、緩やかな湿った風が吹き込んで頬に触れる。
 いつの間にか、雨があがっていた。
 夏の終わりに、秋の始まりが。
 じき私のビオトープにも冬がやって来るだろう。
 商店街の路地を歩くと野良猫が前足で器用に蝉の死骸をころころと玩《もてあそ》んでいるのを私は両の眼でしっかりと見た。

                    (了)


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