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吐いた彼女、吐けなかった僕たち

ある日の記憶を急に思い出した。
ある一瞬の記憶と言った方が正確だろう。
それが何限目であったのか、その当時何年何組にいたのかさえもひどく曖昧だ。

記憶とは本当によく分からない。なぜこんなことを?と尋ねたくなるような、断片的で文脈から解き放たれ、おおよそ時系列からも浮いてしまったような出来事がいつまでも頭にこびりついて離れないことがある。普段意識されることはないが、ふとした瞬間に脈絡もなくそれはやってくる。とにかく、今日、その記憶は僕の意識に急に浮かんできた。

それは小学校の総合の時間だった。もしかすると中学校だったかもしれないし、道徳の時間だったかもしれない。一つ確かなことは、ある女の子が授業中に気分が悪くなって吐いてしまったということだ。

なぜ吐いたか?

病気が理由ではない。それはひとえに彼女の純白の想像力が原因だった。
確かその授業では広島の原爆に関するビデオを取り扱っていたと思う。
先生がビデオを流す前に、気分が悪くなるかもしれないから、その時は早く言いなさいという趣旨のことを言っていたと思う。
そんな予告を受け、僕はどんな映像が流れるか興味が増し、黒板の方にプロジェクターが映し出そうとしているものをじっと待った。
映像は戦争の悲惨さを小学生に伝えようと、「忠実に」残酷な光景を示していった。その当時どれほどの知識が僕に備わっていたかは知る由も無いが、僕は「なるほどな」とか「どっかで見たことがあるかな」なんてことを思っていたんだと思う。
これは静かに見なきゃいけないという雰囲気を小学生ながらに感じ取ったのか、クラスは異様に静まり返り、みんなじっと前を見つめていた。

そんな時、一人の女の子が手をあげ、みんなの目線を集めた。

「先生、気持ち悪いです」

普段ならもっとざわついていたであろう生徒たちも、先程までの静寂を引きずったまま、ことの成り行きを待った。先生もあまり多くを喋らず、少しだけ言葉を交わすと彼女を連れて、教室を出た。彼女はその後吐いたのだ。

二つの空席ができた教室で、映像は流れ続ける。犠牲者たちは苦しみ続ける。

彼女に何が起こったのか。当時も何となくは理解できていたと思うけれど、今の僕にはもう少し深く理解できる気がする。
戦争の、その醜さを彼女は実際に「体験」したのだろう。
犠牲者の痛みは彼女の痛みになった。
彼女の想像力から出た黒い水は、彼女の小さな体を足元からゆっくりと満たしていき、ついには限界を迎えたのだった。

吐いた彼女と吐けなかった僕。

同じ映像を見ていたはずなのに、彼女と僕に起きたことは大きく違う。
なぜだろう、彼女が特別な何かを持っているような気がしたし、僕には何かが足りないような気がした。別に吐かなかったのは僕だけではないし、吐いたのは彼女だけなのに。
彼女のいない教室で映像を見つめる僕の心には、少しの後ろめたさのような感情が残っていたのだと思う。
きっとそれが、十年以上の時を超えて今日に至るまで、記憶の奥深くで沈みながらも待っていられた理由。

彼女が持っていた何かは、僕が元々全く持っていないものだったのか?
それは多分違う。多少の性質の違いはあれど、僕にも、みんなにも備わっていたはずだ。きっと、経験と知識がつくにつれ段々と光が鈍くなってしまっただけで。

小学生だった彼女や僕たちも、大学生や社会人になった。

彼女はまだ吐くことができるのだろうか?
彼女の想像力からはまだ黒い水が出るのだろうか?
彼女の体は水で満たされるほどまだ小さいのだろうか?

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