デンマークにも血は流れる
突然ですが、僕は現在デンマークに留学しています。以下はノンフィクションです。
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最近、デンマーク人と交流する機会が多々ある。大学で週に一度開催される日本語カフェには、日本人やデンマーク人、それ以外の国の人たちが集まり、会話を楽しんだりゲームで遊んだりしている。そこに集まる日本人以外の人たちは、日本語や日本の文化に興味があり、少なからずそれらを勉強している。なので、たまにびっくりするくらい日本語が流暢な人もいる。日本語がすごく上手い人とは日本語で話したり、あまり得意ではない人とは英語で話しつつお互いに少しづつ日本語を織り交ぜたりしている。それぞれの一番丁度いいところを探して言語を使い、お互いを理解しようとするその空間は、時々すごく不思議に思える。人類にとってとても基本的なことなのだろうけど、それだからこそ。
ある日、僕は少し焦りながらいつもの教室に向かっていた。カフェの開始から既に1時間ほど経っていた。大学の中の一つの教室を使って、日本語カフェはいつも行われている。現代的でオシャレな内装のホールを進むと、いつもの場所に着いた。部屋に入ると、いくつか置かれたテーブルを囲うようにして、既に他の人たちは各自でやりたいことをやっていた。それまでも何度か来ていたので、その中には見知った人も何人かいるが、やはり途中からは少し入りにくい。テーブルを中心に張られたバブルたちに弾かれるようにして、教室の奥のスペースまで辿り着いてしまった。そこには、ちょっとしたコーヒーやクッキーが自由に取れるように置かれていた。
お茶を濁すように飲み物を取ったりしていると、デンマーク人らしいすらっとした長身で綺麗な金髪をした女性が横にいることに気がついた。どこのバブルにも属さない僕たちはごく自然に話し始めた。彼女は日本に留学していたこともあり、日本語が不自由なく話すことができたので、当たり前のように日本語で話すことになった。
僕は椅子を持ってきてそれに座り、彼女は窓の縁に腰掛けた。外は曇天のせいで午後3時にも関わらず少し薄暗い。短い夏が終わり、これから冬にかけてどんどんと暗く、どんよりとした気候になっていくはずだ。
彼女との会話は、不思議だった。日本人どうしでも普段しないような話をした。「自分が恵まれていると思うかどうか」、「もし生まれ変わるならどういう風になりたいか」。知的でスラスラと自分の思いを話す彼女につられて、普段音声として発することのない言葉たちが紡がれていく。心地よく、楽しかった。時間はゆっくりと軽やかに流れていく。足早に過ぎ去る他の時間たちを横目に見ながら。バブルから聞こえていたはずの楽しげな声も、いつしか僕の耳には届かなくなった。その代わりに、バブルではない何かがテーブルすらない僕たちを包んでいた。
色々な話題について話しているうちに、どういうわけか戦争の話になった。「既に死んだ人たちが引き起こした戦争に責任を感じるのか」。到底答えなど見つからないような話をしていた。真っ暗な道を歩いているみたいだった。少しづつ口から出た言葉だけがぼんやりと光って、僕をちょっとだけ前に進ませた。日本の戦争について話し終わると、デンマークの話に移った。僕は少し前に授業で話を聞いていたので、それについて話した。
第二次世界大戦の最中、デンマークはナチスドイツに占領された。だが、少し特殊なのは、デンマークはナチスが攻撃を開始すると速やかに降伏したことだ。そのおかげもあって、比較的自由な自治も認められた。反抗さえしなければ、占領にしては「平和」なものだったという。しかし、後半になるにつれレジスタンスが活発になり、被害も大きくなってしまった。
ここまでが僕の知っている話だった。すると、彼女も徐に話し始めた。
彼女の祖父は早い段階でレジスタンスに参加していた。当時のデンマークからドイツへ走る列車は、あるものを移送していた。それは人だった。ユダヤ人や、反抗するデンマーク人、障がい者もいたかもしれない。彼らは収容所に送られ、殺害される。彼女の祖父はそんな列車が通る線路を破壊する活動を行なっていた。線路が破壊されれば、虐殺を少しでも妨げることができる。勇気ある行動だった。しかし、彼は秘密警察に見つかり、捕まってしまう。ひどい拷問を受け、多くの歯を失ってしまった。だが、幸運にも彼は最後まで生き延びることができた。それは「偶然」だった。彼と同じように捕まり、同じ牢屋に入れられた人たちは20人ほどいて、助かったのは彼だけだった。どうやら、偶然にも同じ名前の人がその中にいて、それに隠れるようにして免れたらしい。有名な作品「夜と霧」にも描かれているが、収容所の中で生き延びるには、少なからず偶然が関わってくる。ちょっとしたことが明日生きていられるかを決定づけていたのだ。その後、彼は子を持ち、その子供も新しい命を育むことになる。そうして生まれたのが彼女だ。
ここまで聞いて驚き、感動すると同時に、また何とも言えない不思議な気持ちになった。彼女の祖父に関する全ての偶然が、彼女という形を帯び、僕の目の前でアンニュイな表情を浮かべている。今この瞬間が偶然、奇跡のように思えた。しかし、一方で偶然にも生きられなかった人たちがいることにも気がつく。彼らは自身の命だけでなく、その先の全てを失ってしまった。木々から伸びてくるはずの枝葉のように、本来は生じるはずだった可能性。それらの偶然は形を持って僕の目の前に現れることは絶対にないのだ。まして、同じ言語を用いて一緒に話すことなど。感動と虚しさが混じり合い、行き場を失っていた。
「デンマークは綺麗な街で、それを見えないようにしているけど、そういう歴史もあるの」
そう彼女は言った。幸せな国民、充実した福祉、綺麗な街並みでイメージされるようなデンマークにも、当然だが血は流れた。偶然にも生きることができた命も、偶然にも生きられなかった命もあった。
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