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あの香り、メメントモリ

僕らは明治神宮の桜を見終わり、駅へ向かっていた。絵里と大輝は僕よりも歩くのが速く、いつものように少し前を歩き、冗談を言い合いながら小突きあってる。大輝が振り返って僕に言う。

「なあ、この後どうすんの? 今岡家?」

「またかよ」

僕は呆れて笑った。いいじゃんね、と大輝は不満顔の絵里を説得にかかった。
爽やかな春の日には似つかない、こってりしたラーメンを想像する。まあそれも僕ららしいか。足元の引っ掛かりに気がついて見ると、靴紐が緩んでいた。しゃがもうと、体を少し低くする。春風が羽織のシャツを抜け、体を軽くする。

あ、

僕は小さくつぶやく。あの香りだ。今、確かにそこに感じた。
とっさに体を持ち上げ、あたりを見回す。無駄だと知りつつも。

こういう瞬間が時々ある。前触れもなくあの香りが鼻をかすめ、そして消える。春の暖かい青空にでも溶けてしまったのか。5秒後にはもう、どんな香りだったかを思い出すことはできない。5分前にすれ違った人間のスニーカーがナイキだったのか、ニューバランスだったのかなど覚えていないように。それでもその香りが特別なのは、何らかの記憶を半ば強引に引っ張り出し、僕の目の前に提示する、その魔力ゆえだ。その突拍子の無さや、力強さは、ある種のアートを見た時の感覚に近いかもしれない。
ある時は、子供時代に買ってもらったおもちゃの箱を思い出させる。またある時には、友達でも恋人でもない彼女と歩いた、あの畦道を思い出させる。教室の天井に揺れる水面を思い出せる。
そのどれもが、もう二度と戻れない瞬間だ。心をぎゅっと締め付け、一瞬にして離し、立ち去る。心の弾力をもってしても、跡が完全に消えるのには少しかかる。

今回は、絵里と大輝だった。2,3年前の深夜、大輝の狭い部屋に僕と絵里で転がりこんで、他愛もない話やゲームをした。夜が深まるにつれ、笑い声が大きくなっていったあの夜だ。窓は開いていただろうか。東京の夜は、若者がどこで何をしていようが気にも留めない。

僕はそこでようやく、あの香りの意味に気づいた。あれはただ僕を苦しめるだけのものじゃない。僕にとってのメメントモリだったんだ。

戻らぬ過去を想え。今を生きよ。

そうか、この瞬間もいつか…。止まっていた僕に気づき、何してんだという顔で二人は僕の方を見ている。小走りで追いつくと、二人の顔が懐かしく見えた。僕はなんとも言えない気持ちになり、二人の肩を小突いた。大輝は肩をすくめながら変顔をしてから、前を向いて歩き出した。絵里は、不敵に笑い、僕の肩を叩き返してきた。
花びらが大輝のフードに一枚入っている。僕はそれをそっと取り、鼻に近づけた。


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