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私の文体と文章のはなし

noteで自主的に日記のようなものを書くようになって、少しだけ自分の文章を見直すようになった。
それまでは大学などに提出して、先生が手直しをしてくれるのでそれに甘えきっていたのである。エッセイの課題をひたすらやる授業では、先生が私の文章を褒めてくれるので私はひたすら自分の考えや好きなものを全力で出力しているだけだった。

noteでは自分しか居ないので、当然ながら自分で読み返して推敲しなくてはならない。と思っている。実は私の文章は勢いだけで書いているから後から読むのは苦手だ。でも、未完成すぎるものをインターネットに放流するのも恥ずかしいな、と思って地道に読み返しながら書くことがある。

他の人のnoteを読んでいることの方が多いので、読みながら「こういう工夫をすれば読みやすいのか」とか「こういう文体が好きだから真似したいな」とか考えていることもある。誰かに語りかける文体の方が親しみが持てていいかな、と思ったから真似してみたけど、ですます調の文体が自分に馴染まなかった。途中で他の書きやすい文体に引っ張られてぐちゃぐちゃになってしまう。修行が足りない。

また厄介だったのは、校正や推敲を自分でやろうと思うあまり、書いている途中ですでに「この文章は読みやすいだろうか」「自分の言いたいことは出せているのか」と考えて読み返してしまうことだ。結論まで書いてないのに考えてどうする。そのまま手前の細かい部分が気になって続きが書けずにお蔵入り、という可哀想なボツ下書きもわりと存在する。

読みやすい文体で、自分の話をしたいと思っている。
そのために誰かに語りかけるようなフランクな文章が書けたらいいと思っていたけど、文体を変えるのは意識していてもすごく書きづらいものだと感じた。そういえば、過去に授業で他の人が書いたエッセイを読んだけど、である調で書くように、という課題の指定の中でもみんなそれぞれ文章の雰囲気が異なっていて面白かった。
私は気づいていないけれど、書きやすいこの文体が「私らしい」何かになっているのかもしれない。私は自分の文章をお堅く見えてとっつきにくいなあ、と思っているけど。

今まで、「私の文体」みたいなものを崩してとっつきやすい、わかりやすいものを書かなくちゃ、と思ってたけど、実はあまり気にしなくてもいいのかもしれない。実際に課題エッセイの時は自分の文章で書いて、その文体をちょっと崩してみたりして工夫していたから、そこをもっと伸ばしてもいいかもしれない。

インターネットは毎日更新されているから、つい周りと自分を比べてしまうけど、私は私なので自分のペースをうまく守ってやらないとな、と改めて思った。
近いうちにまた読書感想の話ができるようになりたい。思い返せば好きなものの話ってあまりしてないから、そういうのがもっとできるようになりたい。好きすぎて語れない、を克服するのを目標にしようかな。

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