無血の革命(大英帝国物語⑥)

おひさしぶりです(°▽°)

では。


vsオランダ&ルイ14世

チャールズ2世の時代,オランダと2回の戦闘があった。

第二次英蘭戦争(サンドウィッチ伯爵が活躍した戦争でもある,1665-1667)は,北アメリカのオランダ植民地だったニューアムステルダム(すぐにニューヨークに改名)をイギリスが占領(1664)したことがきっかけとなって海戦がはじまった。オランダがフランスのルイ14世(1643-1715)と組んで仕掛けてきたことでイギリスは決定的負けムードとなったが,同じ時期にフランスが突然,南ネーデルランドに進撃してきた(ルイ14世最初の侵略戦争であるネーデルランド継承戦争,1667-68)ことを受けてオランダは一転してイギリスと協力する方針に転換し,それによってイギリスはなんとかこの戦争を終わらすことができた(ニューヨークは一応維持できた)。

その後チャールズ2世は,今度はフランスと手を組んでオランダを侵攻しはじめた。

なぜか。

チャールズ2世は財政に苦しんでいた。そしてフランスのルイ14世はオランダを侵略したかった。そしてチャールズ2世はカトリック信者であり,イギリス国教会ではなく,カトリックによってイギリスを統治したいと考えていた(またか)。そこでルイ14世から資金を援助してもらい,その見返りとしてオランダに侵攻するという約束を秘密裏にしていた(ドーバーの密約)。そうしてイギリスはオランダと戦争することとなった。

こうして第三次英蘭戦争(1672-1674)に参戦することとなったイギリスだったが,いきなり奇襲を受けて大損害を被ることとなった。さらに密約が明らかになり議会が反対しだすと,チャールズ2世はそれに従いオランダと和睦をした。その後,姪のメアリ(のちのメアリ2世)をオランダの統領であるウィリアム3世に嫁がせることで同盟を結び,なんとか事態の沈静化を図った。

カトリック解放も

この戦争のあいだ,チャールズ2世は「どんな宗教を信じたって個人の自由ですよねぇ」という宣言(信仰自由宣言,1672)を出した。これはカトリックの解放を意図した宣言だったが議会はすぐに反対,「官職につくにはイギリス国教会教徒じゃないとダメです」という法律(審査法,1673)を通してカトリックが政治に介入してくるのを防いだことで,チャールズ2世の意志をへし折ることに成功した。これによってチャールズ2世はカトリック再興をあきらめることとなった。その後チャールズ2世は後継が生まれない中で死亡した(1685)。彼は最後の最後にじぶんがカトリックであること告白したという。

結果的にその願いは次の国王に引き継がれることとなり,それをきっかけにピューリタン革命以来の革命がまたイギリスにやってくることとなる。

ここでエリザベス1世以降の王家であるステュアート朝をまとめる。

1.ジェームズ1世(比べて地味)
2.チャールズ1世(王権集中)
〜クロムウェル〜
3.チャールズ2世(隠れカトリック)
4.ジェームズ2世(カトリック)
5.メアリ2世(プロテスタント)
6.アン(プロテスタント)

対立,そして

チャールズ2世には子どもがいなかったために,次の国王は弟であるジェームズ2世(名前ややこしい,1685-1688)が51歳で即位した。彼は,兄である前国王と一緒にフランスから帰港すると,ニューヨークを与えられたり(彼がヨーク公という称号をもっていたことでニューヨークと名付けられた),先の英蘭戦争では海軍総司令官として活躍したりしたが,カトリック教徒だったために「イギリス国教会しかダメぇ」という審査法によって解任されているような状態だった。なので,カトリックであるチャールズ2世が国王になるということは,議会にとって由々しき問題となった。

議会は,血筋を優先する勢力(のちのトーリー)と反カトリックの勢力(のちのホイッグ)に分断されたが,反カトリック派がちょっとやらかしたことから衰退し,ジェームズ2世はそのあいだに無事国王に即位することとなった。

しかし,ジェームズ2世は即位早々,カトリック信者たちを側近として集めだした。このような明らかなカトリック化はエリザベス1世の前に国王だったメアリ1世(1553-58)以来のことだったために,それまで支持していた層(国王よりのトーリー)は不信感を持つこととなった。さらにイギリス国教会の教徒を政治の場から追放していったことで,ジェームズ2世はだんだん孤立した。さらにカトリック救済のために再び「どんな宗教を信じたって個人の自由ですよねぇ」という宣言(信仰自由宣言,1688)を発し,これに反対する者を追放したことで孤立した。

さらに,イギリス国民は「いうてもジェームズ2世には子どもがいないから一代限りのわがままやろぉ」と思っていたところ,そのジェームズ2世に子どもが生まれてしまった(1688)ことでカトリックによる政権がこれからもつづくかもしれないという事態となった。

■ 名誉革命

そのあいだ息を吹き返していた反カトリック(ホイッグ)はある男と連絡を取り合っていた。

それは,カトリックの大国であるフランスの王ルイ14世と戦いつづけるオランダのウィリアム3世だった。そして,先の第三次英蘭戦争(1672-74)によってこのウィリアム3世にはジェームズ2世の子であるメアリが嫁いでいた(ジェームズ2世はカトリックだが子のメアリはプロテスタント)。イギリスの反カトリック勢力は,イギリス王家とつながりがあり,そして反カトリックの象徴でもあるこのウィリアム3世に次のイギリス国王を打診していた。またウィリアム3世にとっても対カトリックの戦略上有利になると考えるに至り,了解した。

ウィリアムはメアリとともに大量の軍とともに海を渡った(1688)。ジェームズの側近たちは次々と寝返り,ジェームズはさらに孤立した。孤立したジェームズには当然,ウィリアムに太刀打ちできるほどの軍を用意することができなかったので逃亡するしかなかった(ルイ14世を頼って)。

こうしてウィリアム3世(1689-1702)とメアリ2世(1689-94)による共同統治がはじまることとなり,イギリスでは大規模な争いによって大量の血を流すことなく国王の入れ替えに成功したために,この出来事は「名誉革命(1688)」と呼ばれることとなった(ピューリタン革命と合わせてイギリス市民革命とも呼ばれている)。そして,イギリスにおいてのカトリックの芽も同時に潰され,また,オランダ王とイギリス王は同じ人物となった。

権利の章典

その際に議会はある法律をつくり,ウィリアム3世とメアリ2世によって承認された。

その内容は,議会の同意なしに課税をさせないだとか,議会の同意なしに法律のねじ曲げないだとか,あるいは王位継承者からかカトリックを排除するだとかの「議会が国王を制限するぅ」という古来からのものであり,この法律を「権利の章典(1689)」という。そしてこの法律は現在も有効なものとして機能しており,現在のイギリスの不文憲法の根本となる法律になっている(イギリスには法律をひとつにまとめた,いわゆる憲法がない。そのため,それまでに制定された法律などをまとめて憲法っぽくふるまっているイギリスのやり方を不文憲法という)。

このようにしてイギリスでは君主の権力が制限される政治体制(立憲君主制)が確立していった。

一方その頃,フランスのルイ14世はネーデルランド継承戦争(1667-68)から侵略戦争がどんどん拡大しており,イギリスらと100年つづく戦争(第2次100年戦争)はもうはじまっていた。



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