王殺し(大英帝国物語⑤)

おひさしぶりです。

では(°▽°)


■ クロムウェル

勝利して革命に成功した議会軍リーダーであるクロムウェルは新しい政治をはじめるが,すぐにその政治は独裁的となった。クロムウェルの横暴に困らされたのは,同じ議会派として戦った「穏健派」だった。議会派は皆プロテスタントではあるがいくつかの宗派にわかれており,穏健派は比較的国王との協調をめざす側で,人数では他の派閥を圧倒するほどの人数を誇り,支持者にはジェントルマンの上層や大商人などがいた。対して議会派のリーダーであるクロムウェルは「独立派」であり,数は少なかったが軍の中心派閥であり,支持したのはジェントルマンの中層や自営農民だった。クロムウェルと穏健派とのあいだで「捕獲したチャールズ1世をどうするか」という意見で決定的に対立したために,クロムウェルはクーデターを起こし,議会から穏健派を一掃することに成功し,そして,チャールズ1世を処刑した(1649)。

軍事政権は

チャールズ1世を処刑し,王政を廃止し,上院も停止し,下院から大多数の穏健派を排除し,それによって少数の下院議員だけによる議会うまれ,そして運営されていったが,圧倒的に軍事力に偏った独立派による独裁政治によって,財政はすぐに息づまった。また,この独裁スタイルによって他のプロテスタント派閥もくクロムウェルから離れていき,他の国も王殺しを強く非難するなど,クロムウェル政権はどんどん孤立していった。

財政を立て直すためにクロムウェル政権は航海法(1651)を定め,オランダ船がイギリスの貿易に使われること禁止した。この頃のオランダは中継貿易による黄金の時代であり,海外進出を進めていたイギリスとは競争関係にあった。そこでレヴァント会社や東インド会社などの貿易商人が議会に訴え,オランダの中継貿易を阻止することによって商人は利益を確保しようとした。また,イギリス国内の産業を保護する目的もあった。これによってダメージを受けたオランダは怒り,その後4回くらい行われる英蘭戦争がはじまることとなった。第一次英蘭戦争はクロムウェルの勝利だった。

その戦争が終わった4年後,実質的には国王だったクロムウェルはインフルエンザで死亡したことで,ピューリタン革命からはじまったクロムウェルによる厳格なプロテスタントを前提とした軍事政権は終わることとなった。その後,混乱した議会は処刑されたチャールズ1世の子でありフランスに亡命していたチャールズ2世(名前ややこしい,1660-1685)を迎えて王政を復活させた(そしてまた対立した)。

王政復古

王政復古するにあたって,チャールズ2世はいくつかの約束を議会と交わした(そしてまた破られた)。その内容というのは「何教を信じてもいいよねぇ」という信仰の自由や「個人の土地の所有権は保証されるよねぇ」というような,従来の失敗を繰り返さないために王権に一定の制限を課すものだった。これをOKしたチャールズ2世は無事国王に即位することとなった。

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