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ただの「おはよう」それが嬉しくて【エッセイ】

「おはようA君!」

A君は言葉を失った。

こんな時、なんて言うんだろう

A君は、市立中学に通う一年生。痩せ型で丸顔、育ちの良さそうな彼に、壮絶な過去があったことを誰も知らなかった。

4歳のとき、A君が浴びていた言葉は「おはよう」じゃなかった。
「おい、ちびすけ!」「帰れよ!ばーか」言い返す言葉が見つからない。
そんな言い返せないAは、周りから、「お人好しだ」と非難された。そんなのわかってる。でも、言い返せないものは言い返せない。彼は、ただ、傷ついていった。

でも彼は一人じゃなかった。自分を絶対に裏切らない楽器。一緒に考えてくれる先生たち。

そう、彼は一人じゃなかった。しかし、入学してからも、周囲からの鋭い言葉は続いた。ドッジボールのチーム分け、最後まで残った。教室のドアを開ける時、とても怖かった。これほどまでに傷つき続けるのはなんでだろう。

でも彼は諦めなかった。道を外れなかった。何度も逃げたけど、自分を見失わなかった。「お人好しのままでも、それでいい」まるでそんな風に思っているかのように、彼はいつも優しい。困ってる人がいたら声をかけ、ひどいことを言われても、優しく接しようとした。

そんな彼が、6年生のとき、初めて言い返した。「やめろって言ってるだろ」。自分の強さに初めて気づいたAは、学校に通えるように。

しかし、まだ何も終わってはいなかった。戦いの日々が待っていたのだ。「あんた気持ち悪いんだよ」「来られなくて泣いてたくせに」。ただひたすら言われ続け、それでも言い返した。
自分の輪郭をなぞるように、自分の領域を確認するかのように。自分のやっていることは正しいのか、思い悩みながら戦っていた相手はクラスメイトじゃない、自分だ。

そしてくぐった中学の門。待っていたのは、普通の世界。

「おはよう!」

その声に、彼は言葉を失った。「お、お、はよう」かすれたような声で返事をする。ニコっと笑って去っていく友達の後ろ姿に、何だか涙が出そうだ。

「もう、頑張らなくていいのかな」

辛く悲しい経験をすればするだけ強く優しくなれる。そんなわけないだろって思ってたけど、本当だった。それからの日々は、まるで180度違う鏡の中の世界のようで、一言では言い表せない。透き通った水のようにどこまでもさわやかで、温かくすべてを洗い流してくれる春の風のように優しい言葉が、心地よかった。友達に信頼され、愛される日々。音楽と共に友とつながれる日々。

あれから12年、彼はまだ僕の心の中にいて、たまに顔を出す。

「おはよう!」

今でもうれしい。誰も知らない喜びをかみしめて、愛すべきお人好しのまま、今日も街へ出る。

「おはよう!」

今度は僕の番だ。


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