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手塚治虫と養老孟司

𝑡𝑒𝑥𝑡. 養老まにあっくす

 手塚治虫と養老孟司。この二人にはいくつかの共通点がある。第一に、虫好きであること。手塚治虫のペンネーム「治虫」は、オサムシという昆虫の名前からきている。このことは、多くの方がご存知であろう。一方の養老先生は、ゾウムシという昆虫に凝っている。これもまた地味な昆虫だが、蝶とかカミキリムシとか人気のある虫はみんなが持っていってしまうので、あとに残ったのが誰の興味も引かないゾウムシだったと、先生は自嘲気味に語る。しかし、その凝り方が尋常ではなく、やはりなにがしかの愛着があると思われる。
 共通点の第二は、医者であること。手塚治虫が医師免許を持っていたことは、よく知られている。その経験と知識は、有名な『ブラック・ジャック』をはじめとして、彼の作品の随所に生かされている。もっとも、それ以外の目的で医師免許を使ったことがあるかどうか、それは知らない。その点は養老先生も同様で、解剖学が専門だから、腕を振るおうにも相手がもう死んでいる。医者の真似事を頼まれると、「死んだら診てあげる」と冗談を言っていた。
 第三の共通点は、第二と重なるのだが、手塚治虫は解剖学で学位を取っている。それで、養老先生は手塚治虫の学位論文の別刷りを持っていたのだが、医学図書館に寄贈してしまったと惜しんでいた。

 私がこうした事情を知っているのは、もちろん養老先生が手塚治虫について書いているからである。どこに書いているかというと、『きりひと讃歌』第一巻(小学館文庫)の巻末に書いてある。「権力とはなにか」と題されたこの文章は、通常であれば「解説」と呼ばれるところが、あえて「エッセイ」と冠して書かれている。その中で養老先生は、この作品に対して、あるいは手塚治虫の作風について、いくぶん批判的な書き方をしている。
 「いくぶん」と控えめに書いたが、通常こうした解説の類が作品を好意的に紹介していることを考えると、養老先生の手塚治虫論とも言えるこの文章は、いささか挑戦的という印象を受ける。一体、どこを批判しているのか。
 「権力」という言葉が出てきたが、この『きりひと讃歌』に出てくるのが、いわゆる『白い巨塔』のような権力構造である。それに対する手塚治虫の「反-権力」は、ひとことで言うならば「ヒューマニズム」であり、またこの「ヒューマニズム」こそが彼の作品全体を通じて流れる基本原理のようにも見える。だが、少なくともこの作品においては、そこに描かれる権力はいかにも「紋切り型」で、医学の学位まで取った手塚氏であればこそ、もっと踏み込んだ描き方ができたのではないか、というのである。
 この物語では、善と悪がわかりやすく分かれている。地位やお金に拘泥し、業績のために誤った学説を追究してしまう竜ヶ浦教授と、彼を後押しする吉永、彼らに抱き込まれて謀略に加担する村人など。それに対して、生体実験に利用され人生を翻弄される小山内や、良心の呵責から自殺してしまう同僚の占部、小山内の婚約者いずみや、ヘレン・フリーズといった女性。前者が揃いも揃って年配の男性なのに対し、後者はみな若者ばかりである。こうしたところが、いわゆるステレオタイプではないか、というのである。
 手塚治虫はある種の真実を描いていると思う。しかし、養老先生の言葉には「真実は単純を好み、事実は複雑を好む」という名言がある。先生の言葉を借りれば、人が善と悪に分かれるのではなく、一人一人の人間の中で善と悪が分かれるのである。おそらく同じ理由で手塚を嫌ったのが、宮崎駿である。ご存知ない方は一度、コミック版『風の谷のナウシカ』をお読みいただきたい。そんな時間はないという方は、せめて「もののけ姫」だけでももう一度見直してほしい。
 手塚治虫批判ではしばしば言及される点であるが、彼の作品には往々にして、舞台の背後でキャラクターを操る「作者」という名の神が見え隠れする。したがって、ある意味ではよくできたストーリーなのだが、逆に言えば作為的なのである。それがポジティブに働く場合もあれば、ネガティブな方向に働くこともあろう。ともあれ、神になりきって登場人物を意のままに動かし、またその作品を通して読者の心を意のままにしようとするのは、ある種の権力志向ではないのか。それが養老先生が指摘した「権力」である。
 「反-権力」はたやすく「権力」に反転する。養老先生は、ラストシーンで成田空港から飛び立つトライスターに触れて、「これはなんとも皮肉な結末ではないか。手塚治虫がここで描こうとしていた明るい未来、それを象徴しているのは、田中角栄の世界なのである」と書く。一応公平のために付け加えると、実際に描かれているのは日本航空のボーイング七二七で、ロッキード事件(※)のトライスターは全日空であるから、これは事実誤認である。しかし、本作にも「青医連」なるものが登場するが、権力を目の敵にしていた全共闘世代が、時代を経て既得権側に回っているのを考えると、やはり結末は皮肉なものと言える。
 養老先生の指摘するように、善と悪、権力と反権力を、竜ヶ浦と小山内という二人の人格に分けてしまう描き方は、現代ではおそらくもう通用するまい。単純化すれば多くの関心と理解を得られるかもしれないが、それだけ人間は単純な真理に飛びつきやすく、そしてまたその反対勢力もまた、それとは別の単純化された真理を掲げているのである。これからの知性に求められているのは、複雑な事実に根を下ろすことなのかもしれない。


※ ロッキード事件
一九七六年にアメリカ側からの情報リークで発覚した汚職事件。全日空が当時の最新機種「トライスター」を導入するに当たり、アメリカ・ロッキード社側から日本の政財界に多額の現金が渡ったといわれる賄賂事件で、当時の総理大臣だった田中角栄、経済界のボスとして君臨していた児玉誉士夫、国際興業社主だった小佐野賢治などの大物が次々に逮捕され日本中が大騒ぎになった大事件。


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