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事実の正しい認識

𝑡𝑒𝑥𝑡. 養老まにあっくす

 個人名を出して申し訳ないが、先日女優の江口のりこさんが朝の情報番組に、本人としては初めて生出演されたというその模様について、いくつかの記事を読んで非常に面白いと思った。
 ある記事では、「下を見たまま、テレビ的な笑顔は一切なし」「生放送、初めてなんで。いやですね」など、やる気のなさ全開な様子が述べられている。挙げ句の果てには、司会の加藤浩次さんが「もう二度と番宣に来ないでください」と、出演NGを出したとか。
 ところが、別の記事では「うつむいたまま気恥ずかしそうに登場し」「静かに笑みを見せるのみ」と、控えめな印象をそのまま伝えるような記述。「もう来るな」という加藤さんの発言も、彼一流のジョークやツッコミと受け取れる書き方であった。
 私は実際の放送を見ていないので、内容についての個人的な感想はここでは差し控える。何が面白かったかというと、どちらの記事も、書かれている事実については全く齟齬がないにもかかわらず、読み手の受ける印象がまるで正反対なのである。おそらく、どちらも事実に反することは書いていないであろう。なのに、与える印象がこうも異なるということが、非常に面白かった。
 われわれは毎日インターネットやSNSを通じて、おびただしい量の情報に接している。フェイクニュースとか、そういうデマゴギーに騙されているという場合は別として、多くの人が事実を正しく認識していると思っていることだろう。だが、「事実の正しい認識」とは、いったい何だろうか。
 人を騙すのに嘘をつく必要はない。詐欺師はそのことをよく知っている。有名なのは「消防署の方から来ました」である。消防署は全国にたくさんあるから、「方」は嘘ではない。しかし相手に消防署の人間だと誤認させるには十分であろう。フェイクニュースなどわざわざ作らなくても、他人の脳をコントロールすることはできる。
 「ソースは?」などという質問は、もはや馬鹿げている。情報過多の現代では、一般人としては、一次情報までいちいちたどって確認している余裕はない、という方がほとんどだと思う。仕事に関係するとか、必要があればそれは調べるだろうし、私も上の記述は記憶を頼りに書いているわけではなく、正確に引用している。そうでなければ、必要が生じてから調べるしかない。じゃないと、私のような暇人でさえ時間が足りない。
 一般人であれ著名人であれ、政治家であれスポーツ選手であれ、その発言や記述に対して、デマだとか嘘だとか、そういった反応はもはや日常茶飯事である。しかし、事実かどうかということにとらわれすぎると、足元をすくわれる。すでに書いたように、事実だけを書いていても、印象を操ることは難しくないからである。事実は書かれていても、本当のことは書いていないかもしれない。そして、もうお気づきだと思うが、本当のことというのは、つねに「藪の中」なのである。
(二〇二〇年十一月)


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