見出し画像

想像出来ない事があると想像すること*

自分には見えなかったり、想像すら出来ない事柄に出会ったとき人はどうするのが人間として正解なのだろうか。考える。答えは無数にあって、選択出来るのがひとつとは限らないけれど解に必要なのはとにかくまず相手の話を聴くということからすべてが始まるように思う。むずかしいことだけれど。すべてはそこから始まるように思う。未知で自分には想像出来ないことであればある程、話を聴くのはたぶん難しくて相手が言っていることがよくわからなかったり信じ難かったりするだろう。

人間は理解しようとするとき、己の解釈出来る範囲に当てはめようと試みる傾向があると思うが、自分の過去や経験、見聞きしたり本で読んだり噂で聞いたりそのどれにも当てはまらなかったとき、どう扱ったら良いのかわからなくて困惑するだろう。その困惑の状態は、ある意味でとても不安定である意味で不快だから、無理矢理にでも既存の枠に放り込んで理解したと思い込む人もいるだろう。形の合わないものをグリグリと形を変形して押し込めてしまう行為はそれはもう話を聴くことを放置している。そのような自己完結は防御かもしれない。でも想像も出来ない事柄の渦中にいるのが自分にとって大切な人であるなら、そのような自己完結はしたくない。大切な人であればある程、理解したいと思ってしまうのが人間という生き物の性なのかもしれない。理解したい欲求を飛び越えて、相手の話を聴くことが出来るか。自分に理解出来なくても、想像すら出来ない事柄でも話を聴くということは出来る、と思うのだ。とても難しいけれど。ひとつの解は、自分の理解を一旦置いてどこまで相手の話に耳を傾けることが出来るか、ということだと思うのだ。これは確信に近いと思う。理解出来ないけれど、今この人は何か大切なことを言っている、大事な記憶を話している、何か乗り越えようとしている、ようやっと今言葉にしようとしている…話の内容だけじゃなくて、きっと様々な情報を話している相手は発信していて、きっとその相手が発している様々な情報を感じただ受け取る。それは難しいけど、そうしたときに初めてわかることや感じることがあるような気がしている。

***********