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いいかい、この世は窮屈になり過ぎている。誰もが押し込められ、枠や型に閉じ込められ、ぎゅうぎゅうに詰められたらみんな平気じゃいられない。発狂するきみは至極正常な反応を示しているよ。平気な風に見える人だって、平気なわけなくてどこかしら崩壊している。一人辺りの面積を考えてごらん。広い原っぱ全部きみひとりのきみだけの空間だ。ありえない程の人の群れから離され、ほっとする気持ちになるんじゃない?人は誰にも触れられないわかり合えないその人にしかないものを抱えて生きてるんだ。干渉したくったって触れられないし理解したと一瞬思えるそれだって真に理解したわけじゃない。ただ、少し存在に気がつけただけなのかもしれない。僕は"泉"って呼んでいるんだ。誰もがその人だけの泉を持っている。持ってない人なんていないんだ。その泉を、ああ泉があるんだなぁって眺める感じに近いかもしれない。僕にもあって、僕の泉は僕だけが持っている泉なんだ。「尊ぶ」ってこういうときに使うのかな。泉を尊ぶ。かけがえのなさ。泉を見せてくれたら、ゆっくり静かに見つめるよ。僕だけで見ることは出来ない。その人が自分の泉の近くへ案内してくれたら、僕は静かに一緒に眺める。誰かの泉そばにずっとは居られないから、ありがとうって伝えて離れるんだ。

自分の泉に案内してもいないのに、心を許してもいないのに、他人の泉に触れたがる人がいるから。そしてかなしいね、そういう人が増えてしまっている。自分に泉があるって、その存在を忘れてしまってるんだ。だから誰かの泉に触れたがる。荒らすのが好きなんだ。無意識でも野蛮に泉に触れてくる、泉の近くへ寄ろうとする人には全部の力を使って逃げていいんだよ。その人は泥棒よりもたちが悪い。自分の泉は自分で守るしかないんだ。他の誰にも出来ない。少しでも泉荒らし者の気配を察知したら、すごく冷静に当たり前な態度で「私に構わないで」って静かに突き放していい。出来ないときはとにかく避ける。関わらない。これに尽きる。窮屈に感じたら物理的に離れるのと、しばらく連絡もとらないことをお勧めするよ。出来ない環境にいる人もいるね。泉荒らし者は、自分の泉の存在に気がついたら他者の泉を狙わなくなる。自分に泉があるって知ったなら。それがなかなか難しいみたいだね。難しいからって誰かの泉を荒らしていいわけはない。イヤだ、だめだ、離れて、やめて、それを言われて私は傷ついた、悲しんだ、つらい

言っていいんだよ。

自分の泉にさえ気づけず、他人の泉を荒らす。明確な拒否を示していいんだよ。ふざけるな。人間は、泉を失くしたら人間ではなくなってしまうんだ。環境は、人間に泉を失くさせる。僕が一番恐れているのは、怖いのは、それなんだ。ある環境に置かれた人間は発狂するよ。精神をおかしくするよ。それは不思議なことじゃない。生命として自然な現象だ。命は体はいつだって生きる方へと僕たちを動かしている。全部生命からのSOSだよ。ここにいる限り精神を狂わすしかない、生きるために。そうやって生きようと懸命に懸命に頭が体が懸命に命を繋いだ結果だよ。環境によって人間は変わってしまうんだ。良いとか悪いとか意思とか意志とか意識とかそんな低俗な話じゃない。環境がなければどんな生命だって生きていけないから。まず空気と水と太陽と…すべては環境があって誕生し得た命だから。自分が悪いとか自分が我慢したらとか自分を責めてやり過ごすとか、一個人の問題じゃないんだよ。人間は環境に置かれどうにもこうにも動くから。救いは僕ら「動物」だってこと。動ける生き物だってこと。今は歩く以外の移動手段が複数ある。僕たちは「動物」だって、動ける生き物で生きる場所、生きる環境を選んでいける生命だってこと。それを覚えててほしいんだ。いざとなったら動いて、動いて環境を変えていいんだから。きみにはきみの泉があって、それは動物である人間と呼ばれる体に宿っている。泉はひとりにひとつ。誰にも触れない、わかり合えない、その人だけの泉があるんだ。少し、きみの泉の存在にきみが気づけたら嬉しいな。水はどんな色で、どんな大きさでどんな深さでどんな温度で、きみだけの泉だ。忘れないで。忘れたら思い出して。泉と動物と環境。きみならきっとできるから。怖くなったらまた会いにきて。



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