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真の手抜き料理は雑草なのか

「手抜き料理」を定義するのは難しい。
すぐに思いつくのは、卵かけご飯、ふりかけご飯、カップラーメンあたりだが、それは本当に「手抜き」なのだろうか。手抜きというには、結構工程が多くないか。

卵かけご飯にしても、まずたまご、米、醤油、ネギなどを買ってくるところから始まる。そして米を炊く、もしくはサトウのご飯的なものをレンジで温める。卵を割る。混ぜる。醤油をかける。混ぜる。ネギを切る。ネギを乗せる……。

改めて考えると結構手間ではないか。フルマラソンを走り切った後とかに作れる気がしない。結構元気がないと作れないぞ。

世間一般で言われているこの「手抜き料理」というものは、「真の手抜き料理」ではないのではないか。では「真の手抜き料理」とは何か。

そもそも「手抜き」をするにはまず流通に支えられていることが前提とされている。スーパーで気軽に食材を買えるからこその手抜きである。
もしも流通が滞ったらどうだろう。食材が一切店頭に無い中、卵かけご飯をつくることは相当な労力がいると考えられる。全ての食材が入手困難となる、つまり全ての料理が「手抜き料理」と呼べなくなるのだ。

非現実的な話ではなく、震災やコロナで実際に店頭から食材が消えた時期があった。流通が止まる可能性は、何気ない日常にいつでも潜んでいるのだ。

やはり「真の手抜き料理」はこの世に存在しないのだろうか。

いや、ある。

……雑草だ!!

涙の数だけつよくなれるよ。アスファルトにさく花のように

雑草は育てなくても生えてくる。もちろん流通がいくら止まっても関係なく生えているのだ。雑草を摘んで皿にのせて食べる。これ以上の手抜きが考えられるだろうか。

真の手抜きは自然の一部として存在していたのだ!!



そこまで思い至ると、再び別の疑問が湧いてきた。

「自然」を「手抜き」と言っていいのだろうか?
人の手が入っていないものは「手抜き」ではないのではないか。

「手抜き」を辞書で調べると、「しなければならない手続きや手間を故意に省くこと。」とあった。
ただそこにあるだけの自然に、「しなければならない手続き」や、「手間」が果たしてあるだろうか。

「真の手抜き料理」の偶像は霞のように消えていった。


再び考えは振り出しに戻った。

そもそも大体の料理は、「しなければならない手続きや手間を故意に省くこと」でしか生み出せない。
例えば、「ビーフストロガノフ」を作ろうと思ったら、牛を育てるところから始まるはずだ。それを別の人に託し、運んでもらい、食材を調達している時点で、「しなければならない手続きや手間を故意に省くこと」なのではないか。
そうなると、ビーフストロガノフは「手抜き料理」である。

手の込んだ手抜き料理

この世の全ては手抜き料理なのではないか。
今を生きる私たちには、手抜き料理しか生み出せないのだ。
これが「真の手抜き料理」の答えだ……。


そのとき、小学生の頃授業で育てたミニトマトのことを思い出した。近所の農家から種をもらい、一から育てたのだ。手間を省かずせっせと水をやったが、私の苗はそんなに実がならなかった。

ちゃんと世話していたのに何故だろう

周りの子に比べて少ないミニトマトを水で洗い、皿に盛って食べた。
あのとき食べたトマトは、私が人生で唯一作った「手抜きじゃない料理」だったのかもしれない。そう思いながらコンビニで冷凍ナポリタンを買った。



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