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チャンスの神様は前髪しか無い。

季節に寄り添ったご飯を提供する、プラントベースの"よりどころ"店主、yoriです。

私の転職体験は、新卒で会社に入り、その後2回会社を変わり、最終的には会社員を辞めて個人事業主となるまでのお話となります。


新卒から社会人へ

私は桑沢デザイン研究所という専門学校でパッケージデザインを学びました。
就職活動は学校に来る求人だけではなく、新聞や求人雑誌もチェック。しかし応募して面接を受けるところまで行ってもなかなか採用とはなりませんでした。
そんなやりとりに多少疲れてきた時、求人雑誌に”パッケージデザイナー”を募集していた企業を見つけました。
募集要項には経験者と書いてあったのにもかかわらず、私は履歴書、作品の写真集、応募理由を書いた自己アピール文を書いて送りつけたのです。
これだけ送ったら、なんか言ってくるだろう、そんな心境でした。

その甲斐あって当時の企画室長と面接するまで漕ぎ着け、正社員として見事採用!
しかし、そんな会社を約3年勤めた私はこんなことを考え始めました。
以前から好きだったお料理の世界で仕事したいなあ。まだまだ若かったんですね・・・
その時の感情で後先考えずとりあえず会社は辞めようと思い始めたその時に、意外な転職の機会がやってきました。

ご縁は意外なところから

卒業した桑沢デザイン研究所の同窓会があり、参加した時のことです。
お世話になった先生に挨拶をし、隣にいた男性とも名刺交換をしました。
その後同窓会から数日経ったある日、名刺交換をした男性から会社に電話がかかってきたのです。
当時は携帯もメールも、パソコンだってまだなかった時代です。勤めている会社に個人の電話がかかってくることも珍しくはありませんでしたが、要件とは、その人が勤めている会社で欠員が出たので入社試験を受けてみませんか?という転職のお誘いだったのです。

チャンスは生かすべき!

お誘いされた会社はアメリカのデザインコンサルタント会社で、業界ではとても有名な会社でしたが、当時の私は全く知りませんでした。
全く思いもよらなかった話でしたが、軽い気持ちでとりあえず受けてみることにしました。今いる会社はどっちみちもう辞めようと思っていましたので。

6倍の難関突破!

入社試験を受けることになり”課題”が与えられました。
”課題”は某百貨店のコーポレートアイデンティティ。百貨店のロゴマークとショッピングバックのデザイン開発、それをディレクターやデザイナーの前でプレゼンテーションを行うのが入社試験でした。
今ならパソコンでデザインをして、パワポなどによるプレゼンテーションをしたんでしょうが、そんなものは当時はありません。
私はお金を投じて印刷したかのようなプレゼンボードを作成し、プレゼンテーションを堂々と行いました。
デザインのクオティティも大切ですが、プレゼンテーションスキルが決め手になるだろうと、私は思ったのです。こういうところは”肝”が座っていたんでしょうね。その甲斐あって6倍の難関を見事突破!
漠然と料理の仕事がしたいなあ・・・と思っていたのに、意外なところで転職することになりました。

苦い第2の転職

2社目の会社で働いていたのは、ちょうどのちにバブルと言われた時期です。
日本の大手有名企業のコーポレートアイデンティティー(CI)を開発する仕事で、次から次へと大きな仕事がやってきました。
しかし入社して4年が経つ頃、バブルは弾け始め、新規の仕事がなかなか入らなくなり、会社は人員削減を始めました。そして私もその対象となったのが、第2の転職のきっかけです。

首切りした社長が次の就職先を用意

レイオフ、一時解雇、首切りです。
退職金、失業保険をもらい、無職となりました。
その前の年に結婚した私は首切りしやすかったのでしょう。
もちろん就職活動もしました。が、最終的には首切りした社長から紹介された会社に再就職したのです。3社目の会社勤めです。

背水の陣

3社目の会社は、某広告代理店でした。かなり有名な会社です。
とても迷い、悩んだ挙句に転職することを決めました。
過去の2社はデザイナーとして働いていましたが、オファーされた職場は”営業”職。何故ゆえデザイナーである私に営業の仕事を紹介されたかというと、デザインクオリティに厳しい女性クライアントのアテンド的な立場で対応する営業が必要だった、と言うのが理由のようでした。
面談をしてすぐに先方から是非入社して欲しいと返事があり、迷いに迷いましたが私は収入を得ることを選んだのです。実際、給料は前社の時と比べて1.5倍くらいになったので、その点では転職してよかったと思っています。

もう一度自分を振り返る

散々迷って3社目に入社した広告代理店。
”営業”という職種に戸惑いましたが、広告代理店の”華”は営業にあると私は思います。
お金の管理、人の管理、お得意様とのコミュニケーション、企画運営、全てを矢面に立って”戦う”のが広告代理店の営業です。
過酷でストレスも多い仕事でしたが、収入はそれなりにありました。結局私は17年も勤めましたが、管理職になるわけでもなく、これからこのままずっと会社にしがみついて働くのかしら・・・なんて思うようになりました。
そして、歳を重ねても続けられる仕事をしたいな、とも考え始めたのです。

最終的には一番好きなことで生活する


約5年間、実家の母と一緒に介護をしていた父が他界、初めて身近な人の死に直面したことが、自分のこれからについて考えるきっかけとなりました。当たり前ですが、命には限りがあるのだなあと実感した訳です。

一番最初に勤めた会社を辞めようと思ったのは、好きな料理の仕事をしたかったから

それから転職すること2回、デザイン会社や広告代理店に勤めながら、好きな料理はコツコツと学んでいました。
心の中で、会社を定年退職したら、好きな料理の仕事をしたいな。と思っていましたが、自分がまだ若くて体力があるうちに好きな事を仕事にしよう!
そう決心したのは、命には限りがあると父が教えてくれたからです。
そして17年勤めた広告代理店を辞めて、長い会社員生活にピリオドを打ち、料理家として歩むことを選んだのが現在の私なのです。

2度の転職で思うこと

自分の実力もあったと思っていますが、それ以上にご縁をいただくチャンスに恵まれました。
1回目は卒業した専門学校の同窓会に出たことがきっかけでした。
2回目はレイオフはされましたが、その会社の社長が次の職を紹介してくれました。
ご縁はどこにあるのかわかりません。
だからいつも人と真摯に向き合い、チャンスがきたら逃さないこと!
それが転職を考える人に私から伝えたいことです。

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