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七月の読書:『言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか』

 暑い日が続きますがいかがお過ごしですか。私の部屋のエアコンはよりによってこんな時に壊れてしまい、送風口から吹きつける熱風にゴキブリも部屋の隅で干からびてバラバラになっておりました(でもここ数年ずっと出てなかったからエアコンのせいだけではなく私の部屋の環境が彼らにとって過酷すぎるのかもしれない)。
 だからというわけでもないですが今回はあっさりさっぱり(?)、『言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか』(今井むつみ・秋田喜美、中公新書)を読んだ感想を書いていこうと思います。

概要および感想

 著者はそれぞれ認知科学、発達心理学(今井氏)、言語学(秋田氏)の専門家であり、本書ではそれぞれの観点から、人間がことばを覚えて自由に使いこなせるようになる過程やそのために役立つ言語自体の性質、そもそも人類が言語を持つに至った原因について、実験の紹介などを交えながら分析している。
 各章ごとに簡潔なまとめがあり、終章として全体のおさらいも付いているので、専門的な内容ではあるが論旨が追えなくなる心配はなく、読みやすい。

 人間がことばの意味を「知っている」というとき、そこには記号としてのことばとその指し示す対象の結びつきだけではなく、対象についての身体的な経験(味や手触りなど)を通して得た情報も含まれる。その経験を持たずに(持てずに)意味を表す記号同士(果物の名前と「甘い」「酸っぱい」など)を結びつけるのは果たしてその対象を知ったことになるのか? という、「記号接地問題」の紹介から本書ははじまる。
 これはもともとAI研究において提唱された問題だそうだが、人間が使っているごく普通のことばもほとんどは抽象的で、身体性からはかけ離れている。

 それではどうやって人間はそれらのことばを身につけ、使いこなすようになるのか。本書によれば、その最初の一歩を助けるのがオノマトペなのだという。
 オノマトペには対象から得られる様々な感覚情報(物音や手触りなど)を写し取る「アイコン性」がある。これによって子どもはことばに注意を惹かれ、その音に意味があるということに気づいていく。それが記号接地の足がかりというわけだ。
 本書では日本語をはじめとしてさまざまな言語のオノマトペが例示されていて、その音のバリエーションの豊富さを見るだけでも面白い。もちろん初見では何を意味するのかわからない言葉も多いが、感覚的なだけあって何となく意味が想像できそうなものも結構ある。

 ただしオノマトペを知るだけでは言語という巨大なシステムを学習し使いこなすことはできない。そうして身につけた最初の知識をきっかけに、それを分析し、さらに学習して、知識を拡大していくサイクルが必要だ。それを推進するのが「アブダクション」という推論のかたちである。
 アブダクション推論は、観察によって得られた情報の原因や由来を説明するための仮説を導き出すもので、仮説である以上必ずしも正しい答えが導き出されるものではない。しかし新しい知識を生むには欠かせない力であり、子どもはこの推論を使いながら、言い間違いを繰り返しつつも語彙を増やし、言葉を使いこなしていくのである。
 科学の発展もこのアブダクション推論により提案された仮説の検討を通して進んでいく。つまり仮説を立てては実験をしてその正否を確かめていくこの本自体、著者二人によるアブダクション推論の産物なんだよ!
……とドヤ顔でまとめようとしたら、本文にあらかじめそう書いてあった。ちぇっ。でもこういう、ある構造についての記述自体がその構造をなしているという作り、好きです。

 そもそも、最初に言葉と意味を結びつけて理解するのも推論の力だ。「AならばX」は「XならばA」と同じではない。しかし人間はあるもの(対象A)の名前(記号X)を学習したあと、Xを選ぶよう指示されたらAを選ぶことができる。「AならばX」が「XならばA」と同じであると過剰一般化しているのだ。これを対称性推論というそうだ。
 面白いことにこの力は人間以外の動物にはほぼ確認されていないという(論理的に正しい推論ではないので、他の動物はあえて使わないのかもしれない)。
 となると、言語を持つか否かのポイントに対称性推論を自然に行えるバイアスの有無がある、という結論になる(これ自体は以前から指摘されているらしい)。これは言語自体の持つ「超越性」という性質にも関係してきそうだと思った。
 つまり、今ここにない事物について表現すること。もしかしたら想像力。

 それでは、そのバイアスは人間が生まれつき持っているのか、持っているのならそれはヒトという種に突然変異的に現れたものなのか……と本書は続き、それを確かめる実験が紹介される。
 この部分も非常に面白いのだが、ひとつ気になったのは、人間の赤ちゃんとチンパンジーを対象に行われた同じ実験のなかで、赤ちゃんが予測していなかったものに驚く反応をした=長く注視したことを推論能力の根拠にする一方、一部のチンパンジーが予測したであろうものを長く注視したことを推論能力の(例外的な)根拠であると判断している部分だ。
 初版だからか誤字脱字が多く、この部分もどちらかに誤記があるのかもしれないが、もしそうでないのならこの点には説明が欲しかった。

読後に気になってきたこと

 先月の『カスパー』から興味の続いている分野の本で、『カスパー』や他の本の記述に当てはめたりしながら大変面白く読んだ。
 AI研究で提唱されている「記号接地問題」をとば口に、人間がことばを習得していく過程がこまやかに説明されていて、理屈の上では納得のいく内容だ。
 ただ、自分の経験に置き換えて考えると、こんなに高度な能力を駆使して、複雑な過程をたどって読み書き喋ることができるようになったという実感がいまいち持てない(笑)人間って言葉にするととても難しいことを当たり前のようにできてすごいなあとおもいました。
 一方で本当は私はこの本に書いてあるような意味ではことばの意味や使いかたを理解できていないのではないか、それどころか私以外も人間同士は深い意味もわからずことばを使いあっているだけなのではないか、という気もしてきた。ちょっとこわい。

 この本は人間のことばの使用についての研究が中心なので、AIには軽く触れられている程度だが、それでも身体との接地をすることなく記号の間を漂流するだけで(見かけの上では)人間と遜色ないことばの使いかたができるようになってきた現在のAIのすごさは理解できる。
 そこで、本当には意味がわかっていなくてもことばを使いこなせるなら、AIと人を根本的に分けるものはどこにあるのだろう? という疑問もわいてきた。個人的には人間の「自分を疑う能力」「自覚的に嘘をつく能力」あたりに鍵があるのではないかと思う。

 自分を疑うといえば、人間自身がアブダクション推論を思考の道具として使っているのに、アブダクション推論という概念そのものに思考でたどり着くことができるのも、考えてみればすごいことではないだろうか。本書の参考文献にはアブダクション推論についての本もあったので、難しそうだがいつかチャレンジしてみたい。

余談

 今回は一番最初に書いたような事情から他にあんまり本を読めていないので関連書籍を紹介する余裕がないのであります。代わりに、来月も多分こういうジャンルの本を読むぞと予告して記事を締めようと思います。
 それにしてもまぢ暑ぃですね。皆様も熱中症など気をつけてお過ごしください。

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