伝わるのは、言葉でも演技でもなく熱量。

今日は友人の広屋くんのやっている劇団ノーミーツの長編Zoom演劇公演
「#門外不出モラトリアム」を観劇。といっても、もちろん画面上。

ストーリーに関するネタバレ、ほぼなし。です。

公演開始30分前から入場できるのとか、
なんだか、席でパンフレット見る時間みたいだけど、
見ているのはパンフレットではなく、見に来ているお客さんたちのチャット。

そしてリアルに視聴者数のカウントが上がっていく。
なんだかみんなが席について、ザワザワしている感じに似ている。

そして開始5分前から影ナレのように(と言っても顔を出してだけど)
観劇に対する注意などが挟まる。いよいよ演劇っぽい。

ここで私のPCがどうしても回線が不安定で、遅延が激しいことがわかり
仕方なく、スマホにつなぎ替える。小さな画面になってしまった。

途中、5分の休憩を挟んで2時間の公演が終わっていく。
最後に演出・脚本の方、そして演者の方々が順番に出てくる。
カーテンないけどカーテンコールのように。

SNSでは、これがリアルタイムのZOOMなのか?などが議論になっているようだけど、正直私にはどっちでもいい。
それよりも、この短期間でこれだけの脚本を書き、小道具、美術、衣装を揃え、演技をして、演出を直して、そして作品としてココまで完成度を上げて作り上げたことがすごくて驚いた。

会わずに。 だ。

どうしても、制作する方の目線になる。感動した!よりも羨ましいが先に立つ。


はじめて演劇に震えたのは
今から30年ほど前に観た劇団夢の遊眠社の解散公演
「第43回公演『ゼンダ城の虜-苔むす僕らが嬰児の夜』だ。
浪人時代から気になっていてようやく大学生になって観るぞと思ったら解散公演。
だけど、はじめて、芝居に殴られた感じだった。
これで最期!という気迫。
それぞれがそれぞれの中で最高のコンビネーションとパフォーマンスをすると、
こんなすごいことになるのだと
その熱量にうなされ、1週間くらい衝撃から立ち上がれなかった。
と、同時に羨ましかった。
観るほうではなく、作る方として、その熱量に参加したかった。と。

そしてそれをきっかけに、エンターテインメントに関わることがしたいと思った。
自分が打ちのめされるエンターテインメントに出会うと、
芝居でも映画でも文字でも映像でも、それを作る方の輪にはいっていたかった!
と羨ましく思うのだった。
だからジブリもピクサーもタイトルが出る前の
オープニングで悔しくて泣きそうになる。

けれども、それも少し違う事がわかってきた。
エンターテインメントという枠組みさえも実はどうでも良かった。
製品を作ること、仕組みを作ること、事業を作ること、会社を作ること、
そう、何かを作るために熱量がある人の横で一緒に汗をかき、
寝ずに頑張るのが好きなのだ。それがしたいことなのだ。

大事なのは、そこに熱量があることなのだ。
誰かにやらされているのではなく、
その人がやりたい願望、もしくはやらなねばならぬ使命感、
そういうものが持つ熱量にうなされたいのだ。

それは自らがうごかされたものにはいつも熱量があったからだ。

この芝居をこの短期間に作り上げるには、
制作の現場はそれは綺麗事ではなく、ゴタゴタだし、トラブったし、
思いの外うまくいったし、思いの外どうにもならなかったし、
喧嘩したし、泣いたし、胃が痛くなったし、笑ったと思う。
最後の最後まで足掻いたと思う。
その熱量があったのだと思う。

はじめて芝居に打ちのめされた時に感じたのと同じ熱量を感じた。
はじめて映画に打ちのめされた時に感じたのと同じ熱量を感じた。
そして改めて自分が好きなものを思い出した。

誰かが私に何か訴えかけてくるものを作ったとして、
そこにあるのは言葉でも映像でも演奏でも文字でもストーリーでもなく、
作っていく過程での熱量なのだと。
その熱量が言葉になり、映像になり、製品になり、仕組みになり、

私の仕事は誰かの何かを応援する仕事だ。
そしてその仕事をしていて、それを自分が応援したくなるかどうか?
そこに熱量が熱い人がいるかどうか?
それだけが仕事のモチベーションなのかもしれないと。




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