見出し画像

タイムカプセル

私には思春期の頃の思いを辿れる媒体がない。

中学時代、学校で毎日書かされていた「ライフ」という学習日記のようなものは残してあるけれど、それには学校の出来事しか書かれていなくて、家での生活のことは一切書かれていなかった。
だから、当時の私の考えていたことや実際の行動を思い出すには、私の朧気な記憶を頼りにするしか方法がない。
その記憶のなんと不安なことか。実に穴だらけだ。
自分にとって都合の良いように記憶するのが人間の脳の仕組みだが、都合の良いことすらあまり覚えていないみたい。
学校にも家にも居場所のなかった私は、普段どんなことを考えていたっけ。
何かの手がかりになるかと思って写真アルバムのページをぺらぺらと力なくめくってみたけれど、無表情もしくは貼り付けたような笑みを浮かべた私と目が合うだけで、何も思い出せなかった。
それもそうか。撮られた写真は出先ばかりで、よそ行きの格好をした私の目から心情が分かるはずがなかった。家の中で写真を撮る習慣はなかった。撮っても誕生日やクリスマスくらい。もちろん貼り付けたような笑み。

可愛くない。
可愛げがない。
子どもらしい無邪気さが感じられない。
変に大人っぽい達観した目や表情をしている写真の多いこと。
さすがに中高生ともなればそういう表情をしていてもおかしくはないけれど、たかだか10歳前後の少女が浮かべていい表情じゃない。
全然可愛くない。そりゃ親に「もっと愛想良くしなさい」って怒られるわ。写真を見ていたら、昔の感情を思い出すどころか嫌な気持ちになったので、アルバムを開いて早々にぱたんと閉じた。

話を戻す。
日記を残しておけば良かったと深く後悔している。
日記を書いていた時期もあったけれど、完璧主義と三日坊主が共存している私にとって、毎日「満足のいく日記」を書き続けることは至難の業だった。
だから一週間くらいでやめたと思う。その頃のノートも行方不明だ。

学校に行けば優等生、家に帰れば出来損ない。
周囲に真逆の印象を抱かれて、期待と侮蔑に板挟みにされていた。
一歩家から外に出たら自分は優等生にならなきゃいけない、でも本当の私は馬鹿で愚図で鈍間で優柔不断。優等生の自分なんて偽物だ。偽物の功績を褒められても嬉しくないし信じられない。本当の私はそんなんじゃないのに。
爪や指の皮膚を噛む癖がなかなか治らなかった。
ハサミで手の甲を切った。
腱鞘炎になるまでピアノを弾き続けた。
リップクリームを万引きした。
友人の持ち物を勝手に鞄から抜き出して盗んだ。
それでも、私はまだ”優等生”から抜け出せなかった。
みんな、私の何を見ているんだろう。何も見ていないじゃないか。

最終的に、友人の課題ノートを自分のものと偽って提出したのが学校にバレて謹慎処分を受けた。
そこに来てようやく優等生から脱却できたと思った。
でも、そんなことなかった。
親や教師たちは「今まで何の問題も起こさなかった優秀な子がどうしてこんなことをしでかしたのか」としきりに不思議がるだけで、その真意を私に尋ねようとはしなかった。私の「課題が終わらなかったことに焦って、つい、出来心でやってしまいました」なんて表面的な犯行動機を聞いて、それで全て分かったような顔をして、原稿用紙5枚分の反省文を書かせた。
勿論、やってしまったことはとてもとても悪いことだから反省していた。
被害者の友人には謝っても謝りきれなかった。ずっと頭を下げていたいと思った。土下座したかった。そんなんで許されると思ってないし、許してもらおうとは思っていない。でも、許されてしまったら、余計に自分が惨めになった。ずっと恨まれている方が楽だなんて知りたくなかった。加害者とはこういうものか、と思った。

一度、謹慎期間中にスクールカウンセラーと話す機会があった。
担任教師が親に提案して設けられたものだった。私は特段乗り気ではなかった。というか、当時は喜怒哀楽全ての感情を殺して過ごしていたから、何も思わなかったと思う。
カウンセリングでは、動機について再度尋ねられた。
犯行が発覚した当日、最初に動機を聞かれたとき、私は「祖母にやれって言われたからやりました」と答えた。勿論そんなのは嘘だ。当時なぜそんなことを口走ったのか自分でも分からない。教師たちも変なものを見る目で私を見ていた。意思疎通の図れない異質者を見る目。その複数の両眼を今でもはっきりと思い出すことができる。
そんな不可解なことがあったから、カウンセラーは動機に目を付けたのだろう。私は最初に動機を聞かれた時と同じようにカウンセラーに話した。「祖母にやらされた」と。それについてカウンセラーがどう返答してきたのか、その後の会話については一切覚えていない。

翌日、母が次のカウンセリングの予約をキャンセルした。
「今回のことが単なる心神耗弱、頭がおかしくなったせいにされてしまってはいけないと思ったから、これ以上のカウンセリングは断った」と言った。

今回の犯行が心神耗弱の末ではないのなら、頭がおかしくなったせいではないのなら、なおさら”優等生”の私はどうしてそんなことをしたのか。
周囲の大人たちにはもっと踏み込んできて欲しかった。
なぜ、そこでカウンセリングを続けさせてくれなかったのか。
医療に繋げてくれなかったのか。
もう十分、やってることはおかしいのに。
もし、あのとき医療に繋げてもらっていたら、もっと早く治療を受けられていたら。何度もそう思った。
でもそう思えるようになったのは、事件から数年経ち、アダルトチルドレンの自覚が芽生え、精神科で双極性障害と診断が下りてからだった。
それまでは私自身「頭がおかしいせいにしちゃ駄目だ。もし本当に心神耗弱だったなら、冷静に偽装工作の案を練って実行することなどできないはずだ」と考えていた。
けれども、今考えれば、見ればすぐに偽装だと分かる偽装を施していたこと、犯行が発覚した場合のことを一切考えていなかったこと、犯行が発覚して動機を聞かれた際に「祖母にやらされた」などと意味不明なことを口走ったのを踏まえると、明らかに頭がおかしい状態だったと考えられる。

自分でも分かるような異常さを、当時の周囲の大人たちはどうして追求しようとしなかったのだろうか。
ちょうど期末テストの時期で教師たちも忙しかったから、たった一人の馬鹿な生徒にいちいち構っている余裕がなかったのか。だから手っ取り早く謹慎処分にして空き教室に軟禁したのか。動機などどうでもよくて、ただ「面倒なこと起こしやがって」と思い、反省文を提出させてはい終了にしたかったのか。
私がどんな気持ちであの空き教室で過ごしたのかを、考えたことがあるだろうか。
馬鹿みたいに真っ白な部屋だった。飾り気もなく、会議用の長机に自分と教師用の椅子が一脚ずつ、薄いカーテンが立てる衣擦れの音と、自分が座るパイプ椅子の軋みの音だけが響く部屋。
謹慎処分中でも期末テストは受けなきゃいけないから、教師が代わる代わる部屋に来てその日進んだ分の授業内容を教えてくれた。申し訳ないが、頭になんて入るわけがなかった。
生徒との交流も禁止されていたから、時間をずらして登校した。すでに授業の始まっている時間に、しんと静まり返った昇降口にひとり佇む気持ち。
トイレに行くにも誰かとすれ違わないかとひやひやしながら、廊下の人の気配を察知しなければいけなかった。
勿論、昼食もひとり。味など感じられず、ただ機械的に食べ物を喉に押し込む作業を繰り返した。
そんなものあるはずないのに、部屋中に監視カメラが着いていて四六時中自分を見張っていると思い込んでいた。
大人たちは、私のこの日々に、加害者という一人の17歳の少女の日々に、思いを馳せたことがあっただろうか。
誰かひとりでも私の内面を、犯行動機の背景を知ろうとしてくれた人はいただろうか。


私が、この地獄のような学生時代に、毎日何を思い、何を考えて過ごしていたのかを知る術は何もない。
私の記憶と、周囲の記憶の中の私しかいない。
でも、周囲が見ていた私は私であって私じゃない。
当時の”優等生”であり”出来損ない”であった私、そのどちらでもなかった私を知るものは何もない。

だから、今の私が振り返ってあげることしかできない。
なるべく先入観をなくして述懐してあげたかったけれど、難しかった。
面白いのが、こういうことを思い返しても当時の感情が一切思い出されないこと。さすが感情を殺していただけある。そりゃ精神科に通って想像エクスポージャー法を試すわけだ(あまり効果は見られなかった)。
こういうタイムカプセルを掘り起こすみたいなことは、今後も続けていきたい。
そして、今の私は二年ほど前からスマホアプリで毎日日記をつけている。

もう二度と”私”が消えることがないように。
”私”のすべてを日記に書けるわけじゃないけれど、”私”の断片だけでも残せるように。
過去の”私”が迷子にならないように。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?