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箱と田舎と変拍子

田舎は似合わないから都会に出なさい。

母にそう言われた。地元を嫌い、結婚を機に同じ県内の別の市に籍を移した母に。かかりつけの病院が東京にあるなら東京に引っ越せばよかったのに。彼女がそうしなかったのは保守的で不器用な夫のせいか、否か。彼女は田舎に留まることを選んだ。

ただ、私を産むときに生きるか死ぬかの選択を迫られた母は、東京の病院で私を産んだ。予定日より3ヶ月も早く生まれてしまったせいで、私は左耳が聴こえない。母はそのことを気に病んだ。自分が心臓病なんかじゃなかったら、ちゃんと胎内でゆっくり育ててあげられたのに。そう言って母がさめざめと泣くたび、私は泣けなくなっていった。泣いてしまえば、本当に母が可哀想なひとになってしまうと思った。泣くべきは母であって私ではない。

私を産んでから22年経った今、母は出産時のことを美談として語る。美化するのに二十余年もかけた。自分の生命を賭して私を産むことを決意し、もし母子の生命を天秤にかけることになったら必ず子を生かしてくれ、と夫と主治医に訴えたという。

生まれてこなければよかった。
そう思っている私に言わせれば、私の誕生を美談にするな、の一言に尽きる。残酷な主張だと思う。けれど、新しい生命をこの理不尽な世界に生み出すことだって十分に残酷な行為だと思う。一般的に、このような主張は反出生主義というらしい。そんなロジカルで格式張った言葉では表せないほど、どろどろと煮詰まった混凝土のような、生来的な不快感を覚えている。

母は写真を撮るのが好きだ。殊に、それをアルバムに丁寧に仕舞う作業が好きらしい。
家族写真のアルバムは一体何冊あるのだろう。大きな二つの本棚がそれだけで埋まってしまうほどの冊数がある。
特に多いのが幼稚園時代の写真。2004年〜2006年まで、各一年ごとに平均2冊のアルバムで構成された私の軌跡。私は愛想のない子供だったから、溌剌とした笑顔の写真は少数だ。けれども、無表情で遠くを見つめる眼差しを捉えた写真は、笑顔の写真よりも数倍、子供の"素"を捉えているように思う。

子供は風の子、いつでも明るく朗らかに、なんてまやかしだ。子供は平気で動物を殺すし、ひとを傷つける。自分が愛されるように言動を計算する。無垢や無邪気さで許される暴挙。それが子供の、人間の本能ではないか。

田舎で燻って過ごすのはもう飽きた。
田舎でのびのびと生きられるのは田舎で生きる才能があるひとだけだ。私にはその才能はない。都会の喧騒に紛れて個を殺して歩き、それでいてより一層個を意識して生きるような、そんな生活の方が合っている。個が何なのか迷っているうちは、個に紛れた方が気が楽だと知ったから。他人の個を見て選り好みをして、自分には何がお似合いだろうかと箱を見分ける。箱に入ってみて気分が凪いだらそこが正解だし、荒れたら飛び出してもう一度彷徨う。その繰り返し。都内にはひとの数ほど箱があるから引っ越しし放題だ。

生活にリズムは必要。
けれど、あまりに単調すぎると隙間を見つけて死にたくなる。十六分休符くらいの隙間でも死ぬことができる。
変拍子が丁度いい。変則的な隙間では息を吐くので精一杯で、死ぬどころじゃなくなる。寝て、食べて、リズムに置いていかれないように波に乗る。主旋律の美しさなんてどうでもいい。自分が心地よければ、夢中になれるのなら、速度記号がめちゃくちゃでも何でもいい。

花瓶の水を替えられるくらいの余裕があったら尚良し。
ここには随分長く居座りすぎて退屈になってきた。誰かに迎えを頼むより、自分で動いた方が早い。
田舎で生きる才能がなかった、なんて格好つけた言い回しをしたけれど、要は田舎コンプ拗らせた女の話です。都会に行ったって、たぶん、"あの街をあるく才能がなかったから"って不貞腐れるわ。一生迷子かもしれない。

次はどの箱に引っ越そうか。

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