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片付け|頭のなかのモヤモヤ

鳥を、一羽の鳥を、25年以上飼うというか介護までして最後まで付き合い切ったとき、最初からそうなるなんて誰も思っていませんでした。鳥も、思っていなかったはずです。そういう出会いって、生きているうちに何回あるんだろうって思ってしまう年末です。

このヘッダー画像の三密。理想郷です。いつか、相性のいい子たちに出会いたいですね。

片付けを進めているとき片付けの話をしたくなくなる(=逃避)という気まぐれに悩まされつつ、頭のなかのモヤモヤを片付けるべく、なんでもいいから文章を書くことにしました。

藪から棒ですが、趣味で三味線を習おうとしたことがありました。

人からのアドバイスというのは「誰からのモノなのか」が最も重要です。それを、最初に教えてくれたのは、誰だったのか。もう忘れてしまいました。が、私にとっては座右の銘級の名言でした。「誰から」を意識すると、同じ言葉でも軽くなったり重くなったり、大事になったり、そうじゃないものになったりします。

実は、受け継いだ三味線を持っています。立派な桐製の扉のある三味線棚に、2本縦に収まっています。通称「死んでいる部屋」から発掘されましたが、もともと弾けません。今のところ扉を開いて閉めただけです。一つは練習用、一つは本番用。何の本番かわからないけれど、発表会とか大丈夫だと思います。着物を着られるので、その格好で少しでも音を出してみたいと思ったことはあり、周囲の人に相談したら、いろんな反応がありました。

・一緒に習おう。先生探してよ
・習い始めたらお金かかるよ、大変。
・売っちゃえば?

とかとか、いろいろ。

私が最も重要視するのは「先生」です。それこそ、誰に教わるか師匠が誰かで、私の三味線が決まると思っています。だから、そういう人が見つからなければ始めないと腹を括りました。

逆に、以前に三味線ではないのですが、いい先生だと思えそうな人が見つかって、それが男性だったときに、熱心に「先生に教わりたいです!」と伝えたら、とても警戒されてしまいました。何かがいけなかったのでしょう、後で「真面目な方で良かったです」と言われました。最初から大真面目なんですけど…?

あと、その三味線を習いたいと思っていた昔の自分と、最近の自分は少し違います。習うという感覚が変わりました。

まず夢って、時間と共に変わってしまうから、思い立った時に入り込めないと通り過ぎてしまいますよね。もう、三味線に関してはお師匠さんにつこうとは思っていません。今後、自力で弾こうとすることはあるかもしれないけれど、毎週のように通っておさらい会に参加してとか、ちょっと考えられない状況だし心境です。伝統的なしきたりがあるのですが、そのシステムに入る予定がありません。

それから習うという感覚が、時代のせいか刷新されてしまいました。本来なら、表層化していない言語化されていない「情報」や「技術」を身近にいることで学ぶというのは、今でもしたいし、必要なことです。でも、気持ちは籠る方向で、外へは向かないのです。自分にとって相応しい「先生」・相応しい「環境」でないときの負担を考えると、習わなくても独学でできることは、むしろ独学でいいと思っているのです。

何かを習うとしたら、どんな風に接点を取りたいか、それを考えています。



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