Yohei Sassa

ダイアリーとファンタジー

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最近の記事

ここ2年のはなし

2021年5月1日、猫を飼いはじめた。マンチカン。中野のペットショップで一目惚れ。大粒の雨が降る夜だった。 2022年2月に当時付き合っていた彼女と入籍した。愛猫の誕生日に新宿区役所へ婚姻届を提出した。 2022年4月にサイバーエージェントを辞めた。2019年に新卒で入社し、ちょうど3年働いた。石の上にも3年。 2022年4月の末に東京から北海道へ移住した。東京で散ったはずだった桜が咲いていた。引っ越しのときにもう着ないだろうと思い、ダンボールの奥底へしまった冬服は、再

    • 砂漠に薔薇を求めよう。 浜離宮-清澄白河-東京スカイツリーを巡る

      書を捨てよ、街へ出よう渋谷は混沌かつ猥雑な街である。 企業ビルがひょこひょこと立ち並ぶオフィス街であり、渋谷109やパルコを要するファッションの街でもある。そうかと思えば、陽が沈む頃には、ギラギラした若者が集まり、居酒屋やクラブで夜通しその有り余る体力の限界に挑戦しているし、道玄坂を脇道に一本逸れたならば、何やら怪しい輝きを放つホテルが絡み歩く男女の受け皿になっている。 一言では言い表せられない街の多様性、それこそが渋谷が渋谷たるゆえんであり、清潔でいい香りのする渋谷など渋

      • インターネットと啓蒙

        ひとりの女性が死んだ。 ぼくはそのとき、夜更かししてしまった金曜日を引きずりながら、土曜日の午後のまどろみの中にいた。何気なく流し見するTwitterのタイムラインが多くの情報を吐き出しながら、下へ下へと滑っていく。 その中のひとつ、限りなく事実のみを書き連ねた無機質な文章と添えられた写真に目が留まる。訃報。 驚きや哀しみ、喪失感や諦念といった気持ちが複雑に混じり合い、体中を駆け巡る。 ぼくはそれからこのことが頭から離れなかった ——と言ってもまだ丸1日と少ししか経って

        • 死ぬかと思った。 僕と渋谷と扁桃周囲膿瘍。

          2020年5月9日土曜日。 ぼくはまさに死の崖っぷちでうずくまっていた。ひとたび風が吹けば、死の淵へ転がり落ちそうなほど弱々しく、生に縋りついていた。 死は生の対義ではなく、生は死を内包するものである。生が死を内包するからこそ、生は輝くのである。そして、死は、若ければ若いほど、また変死であれば変死であるほど、生の輝きに煌々たる光を与えるのである。 三島由紀夫、マリリンモンロー、マイケルジャクソン。 常人には理解できぬ死を遂げたからこそ、圧縮された生の伏線を回収できる。そ

          失くした鍵を探して

          目を覚ますと時計の針は午前10時を回っていた。昨晩の出来事を思い出そうとするが、寝起きで冴えない上に、軽い二日酔いがさらにその思考を阻んだ。 「あ、鍵」 かろうじて思い出せたのは、昨晩のうちに部屋の鍵を紛失したことで、山の如く積み重なる私の歴史の中でも指折りで最悪な目覚めである。どうか夢であってくれと、1K6畳の部屋を手当たり次第探してみるが、どうやら夢ではないらしい。仕方なく私は昨晩の行動履歴をどうにか思い出し、鍵を探しに出かけることにした。 これはとある独り善がりで頼り無

          失くした鍵を探して

          エンドロールは流れない

          この街は退廃していた。 先の大戦で敗れ、戦勝国と結んだ条約には多額の賠償金が課せられていた。その負債支払いのために大量に出回った貨幣で通貨価値は底なしに暴落し、ついには人々の中の道徳的規範の方も喪失してしまったらしい。 キャバレー、麻薬、売春などの刹那的な娯楽が流行し、警察ももはや介入してこなかった。 ひとりの男が、かつて書店や映画館などが軒を連ね、本国随一と言われた文化通り ——今では違法のナイトパブに建て替えられてしまった ——をよろよろと歩いていた。まるで風が吹け

          エンドロールは流れない

          徒歩で日本を縦断した話 (下)

          この話は「日本を縦断した話(上)」の続きである。 --- 「いいことがあるから笑顔になるんじゃなくて、笑顔でいるからいいことがある」Mr.Childrenの歌の中にそんなフレーズがあり、それは大方正しいように思えた。 金子と兵庫県は西脇市で別れた後、僕は久しぶりに気の置けない友人と話ができた充足感からか愉快な気持ちで歩を進めていた。すると、一台の車が僕の前に停車した。「ねえ、僕、旅してるの?」おしゃれな40台前後の女性(もう少し若く見えるが、後の話の中で確かそれくらいだと

          徒歩で日本を縦断した話 (下)

          徒歩で日本を縦断した話 (上)

          甲板に登って風を感じていると、停泊していたフェリーが与論島を出発した。「もうすぐだ」高まる感情を抑えきれず、一人そう呟く。 あと数時間もすればフェリーは那覇港に到着し、僕の旅も終わりを迎えるだろう。もう毎日30km以上も歩かなくていいし、野宿をする必要もない。スマホの充電残量を気にしなくてよければ、コンビニの菓子パンに頼っていた食生活ともおさらばだ。だけどなぜだろう。ちょっぴり寂しいような気もする。明日からまた”普通の生活”に戻るのだ。頭の中を83日間の思い出が走馬灯のように

          徒歩で日本を縦断した話 (上)

          「何者」でもない状態でいい

          僕が働いている会社は、若手の活躍を応援するカルチャーがあって、そのおかげか新卒は目立つ機会が多い。 例えば、配属された部署では新卒紹介ポスターが大々的に貼られているし、新卒の名前や顔写真、好きなものや目標が記載された小冊子も現在作成中だ。また、内定者時代にも同じように冊子を作り、会社の役員に直接渡しに行った。 そして、当然のことだが、ポスターやら冊子を作るということは「僕はこういう人間です!こんな目標があります!よろしくお願いします!」という自己アピールの文言を差し込まなく

          「何者」でもない状態でいい

          京都下宿叙事文

          人間の記憶というものには限界がある。既に我々の記憶容量は、肌身離さず持ち歩いているこのスマホというものに敵わない。僕もいずれ忘れていくのだろうかと思うと幾分か悲しい。いや、すこぶる悲しい。それほど、僕が京都で過ごした日々は愉快で楽しかった。勿論、楽しいことばかりではないのだが、それらも含めて大切な思い出として残しておきたいと思う。それ故に僕はインターネットという手段を用いて書き記すのである。 先に断っておくが、これはただの大学生のノスタルジックな日記であり、京都に住むってどう

          京都下宿叙事文