表紙

「何者」でもない状態でいい

僕が働いている会社は、若手の活躍を応援するカルチャーがあって、そのおかげか新卒は目立つ機会が多い。
例えば、配属された部署では新卒紹介ポスターが大々的に貼られているし、新卒の名前や顔写真、好きなものや目標が記載された小冊子も現在作成中だ。また、内定者時代にも同じように冊子を作り、会社の役員に直接渡しに行った。

そして、当然のことだが、ポスターやら冊子を作るということは「僕はこういう人間です!こんな目標があります!よろしくお願いします!」という自己アピールの文言を差し込まなくてはならない。

僕はその度に深く頭を抱えてしまう。
僕はどんな人間なんだろう。冊子に記載できるくらい大層な目標なんてあったっけ。

横にいる同期が自分のアピールポイントや目標をスラスラとスプレッドシートに打ち込んでいく。「事業責任者になる」「新人賞を獲る」、エトセトラ...。
周りの同期は目標をテンプレ化していて、一種のタグとして機能してきている。「〇〇君といえば△△だよね」と。逆もあり得る。「△△といえば◯◯君だよね」

タグとはアイデンティティのようなものだ。自分がどんな人間なのかを端的に表し、それによって名前を売っていく。実力主義で目立てば目立つほどチャンスが舞い込んでくる会社だ。自分を売り込むタグがあった方がいい。

僕はいつも悩んだ末に毎回違う目標を記入している。言い換えればタグを作っていない。しかも、毎回変える目標というものも、具体的な表現で書いたことがない。周りの同期が具体的な目標 ——例えば「事業責任者になる」だとか を記入していく傍らで、僕は常に抽象的な目標 ——例えば「仕事を楽しむ」「人生を楽しむ」だとか を悩んだ末に記入していた。

勿論、事業責任者になりたくないわけではないし、口頭で目標を訊かれた時に「事業責任者に興味があります」と答えたこともあった。ただ僕はそう答える度に、心の中の柔らかい部分がぎゅっと締め付けられるような感覚があって、この答えは違うんだろうなという漠然とした思いがあった。そして、それは日に日に強くなっていった。

結局僕は自分にタグをつけることなく、入社して1ヶ月半が過ぎた。

日増しに強くなる違和感の輪郭を捉えられるようになったのは、鷲田清一氏の「じぶん・この不思議な存在」という本との出会いであった。

どうして、私たちはいつも同じ線の上にいなくてはならないのだろう。同一の枠内のシナリオにいなければならないのだろう。同一の存在でいなければならないという強迫観念が、私たちをしばしば不安に駆りたてる。・・・(中略)隠居という慣習がリタイアというよりもむしろアイデンティティの別のステージへの乗り換えを意味したように、つまり隠居とはなにもしなくなることではなく、別のことを開始するということだったように、あるいは改名の慣習というものがひとには生涯複数のアイデンティティがあって当然だというみなす社会のそれであったように、アイデンティティが単一である、という固定観念こそが、この生活はくずれるのではないか、つまりは<わたし>がこわれるのではないかといった不安を煽ることになっているのではないか。 

特定のタグを付けるという行為は、自分は自分であるという単一のアイデンティティを創ることだ。

僕はこういう人間で、こういう目標を持っている。テンプレ化されたそれは、300人ほどいる同期の中で僕という人間を端的に表し、自分の武器になる。

その一方で、僕という人間が振舞うべき行動を規定し、如何なる時もタグに矛盾しないように生きていかなくてはならないという怯懦を生む。もしかしたら僕は単一のアイデンティティを保有することに対して恐れを抱いていたのかもしれない。「何者かになる」ということは、何者かをずっと演じなくてはならなくなることだ。「几帳面でしっかりした人間です」と自分自身にタグをつければ、毎日キチッとしなくてはならない。机の上は綺麗だろうし、遅刻なんてしないだろう。急に自宅に押し寄せても整理整頓された部屋が迎えてくれるはずだ。

だけど、それって辛い。生きていたら怠けたいときだってきっとある。昨日の僕はしっかりしていたけど、今日の僕は怠惰かもしれない。明日なんてどんな僕になっているか分からない。今はIT系の仕事に勤めているけど、来年どんな仕事をしているかなんて分からない。もしかしたら仕事すらせずに南国のビーチで遊んでいるかもしれない。

僕という人間の価値、可能性は常に無限大であってほしいし、実際に僕らは何にでもなれたはずだ。プロ野球選手にもなれたかもしれないし、パティシエにだってなれたかもしれない。自分はこういう人間なんだというアイデンティティが、一種の諦めにも似た言い訳として作用する時があって、昨日の自分の可能性を一つずつ潰していったのかなと思う。

目標「事業責任者になる」が、ある程度のアイデンティティとして機能するとき、その1つの線の上を矛盾しないように歩かなくてはならない。もちろん、その目標が自分の行動をいい方向に変えることがあるのもわかる。

だけどやっぱり僕には「事業責任者になる」と公言できない。そして、今後も目標を問われたら言い続ける。「仕事を楽しむ、人生を楽しむ」と。

事業責任者が楽しそうならやってみたいし、違う仕事が楽しそうなら違う仕事をしてみたい。ユーチューバーが楽しそうだからやってみる。日本縦断が楽しそうだからやってみる。そんな軸で行動していた頃の僕を、大学生だったからできたとは結論付けたくない。いつまで経っても、楽しいことに真剣に向き合っていきたい。そして、自分を縛る全てのアイデンティティから解放されていたい。

僕は何者でもないし、何者かになるつもりもない。明日は明日の風が吹く。そんなふうに生きていきたい。



そのお金で旅に出ます。