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失くした鍵を探して

目を覚ますと時計の針は午前10時を回っていた。昨晩の出来事を思い出そうとするが、寝起きで冴えない上に、軽い二日酔いがさらにその思考を阻んだ。
「あ、鍵」
かろうじて思い出せたのは、昨晩のうちに部屋の鍵を紛失したことで、山の如く積み重なる私の歴史の中でも指折りで最悪な目覚めである。どうか夢であってくれと、1K6畳の部屋を手当たり次第探してみるが、どうやら夢ではないらしい。仕方なく私は昨晩の行動履歴をどうにか思い出し、鍵を探しに出かけることにした。
これはとある独り善がりで頼り無い男と天真爛漫でお茶目な彼女が長く短い夜を渡り歩いた大冒険の記録である。

第一幕 焼肉屋

東京に越してきて早3年。生産性のみが絶対的価値基準として君臨する大都市にて、私は情けなくもその螺旋から降り、敗者の道を飄々と歩いていた。大学生だった当時、広告代理店で働きたいと言って、その狭い門戸を掻い潜るようにして内定を得たものの、どうやら私の慎み深くたおやかな性格ではこの業界で生き残れないらしい。そう悟った私は、実地では生かすことがついぞ叶わなかった決断力で辞表を提出し、現在は名もなき小さな出版社で働いている。
そんな大資本主義帝国に一時敗北を余儀なくされている私だが、一つだけ如何しても諦め切れぬことがあった。
それは、広告代理店に勤めていた頃、同僚の婦女に抱いていた恋慕の情である。彼女は底抜けの明るさとまるで天使のような笑顔を兼ね備え、おまけに妖艶な雰囲気を身に纏い、数多くの野郎どもを恋の落とし穴に突き落としてきたという。その風貌は人類が決して失ってはならない有形遺産であることを物語っている。第二次世界大戦でナチスドイツに襲撃されたフランス政府がその文化的遺産の数々を壊されてはまずいと、パリの無血開城に踏み切ったのも納得がゆく。遺産とは自らを犠牲にしても必ず後世へと守り継いでいかなくてはならないものなのだ。
昨晩はそんな歩く遺産である彼女と二人、少し値が張る焼肉屋に行き、肉とアルコールを嗜めていたのである。機は熟しつつある。

◯ 

下宿から歩いて10分ほどのところにその焼肉屋はあった。私は鍵を落とした最有力候補として、我々が密会したここ焼肉屋が怪しいと踏んでいた。
すでにランチ営業を開始しており、私はその扉を押した。
店内はそれほど混んでいるわけでもなく、皆が銘々に焼肉を楽しんでいた。
来店した私に気づいた30代くらいの店員が近づいてきた。
「いらっしゃいませ」
「すみません。昨晩ここで食事をした者ですが、鍵の落とし物ってなかったですか?」
「鍵ですか..少々お待ちください」
店の奥に引っ込んでいった店員を見守りながら、私は再び店内を見渡した。カウンター席が6席、4人掛けテーブル席が3席、2人掛けテーブル席が3席というフロアになっている。昨晩の私は彼女と店内中央の4人掛けテーブル席に腰掛け、他愛もない話をしていた。その記憶が緩やかに蘇ってくる。

レモンサワーを2杯ほど流し込むと、私の体は消極的な緊急事態宣言を発令し始めた。頰には赤みが走り、思考が冴え渡り、まるでダムが決壊したかのように舌をふるっている。対する彼女はまるでお酒の影響を感じておらず、いつも通りこの世のものとは思えない麗しさを保持していた。
「ところで最近は彼氏とどうなんだい?」
彼女には恋人がいて、これがまたなかなかの美男子なのである。だからといって、私が彼女に恋慕を抱いてはいけないという法律は存在しない。
「聞いて。この間言い合いしたの。夜中の3時から明朝6時まで」
「へえ。これまたなんで?」
「彼氏が私の浮気をものすごく疑ってくるの。だから最後に言ったわ。もう今後一切浮気を疑うことは禁止、とね」
彼女はいつもこんな感じで、事実のみを伝え、自分が抱いた感情、ひいては恋人の悪口は絶対に言わない。彼氏の悪口の一つや二つ漏らしてくれれば、私もその隙間に完全武装した突撃隊を送り込み、内部から瓦解させようと企むのだが、やはり甘くはないようだ。
「君は彼氏に惚れているねえ」
「なぜそう思うの?」
「僕は君の彼氏の悪口を君の口から聞いたことがないよ。愛し合う男女が同じ時を過ごせば、不満の一つや二つ出てきてもおかしくないというのに」
私がそう言うと、彼女は少し困ったような顔を浮かべ、やがて微笑した。
「何も考えていないのかも。私考えること苦手だしね」
彼女の彼氏への気持ちが一向に読めないまま、会話は泥沼化している。私は彼女の真意をいざ確かめようと、無謀な戦争をけしかけてしまっていた。彼女の彼氏への悪口を引き出し、その闇から私が彼女を救ったという物語を欲しがるあまり、彼女を困らせてしまっている。これでは大東亜共栄圏を唱え、欧米植民地支配からの解放を歌い、東南アジア諸国で凄惨な虐殺を繰り返した日本帝国軍と変わらぬやり口ではないか。過去から学ばないものに未来はない。私はすぐさま反省し、話題を変えた。いずれにせよ機は熟しつつある。私はその時が来るのをただひたすら待ち続けていた。

第二幕 住宅街

彼女が東京へ越してきたのは、5年前らしく私より2年早い。地元である北海道の短期学校を卒業し、意気揚々と大都市東京へと足を踏み入れた。田舎者なら誰しもがたじろぐこの都市で、彼女は東京の競争至上主義に染まることなく、むしろ自らがもつ天性の御都合主義を東京中に布教していった。その活動たるや、いまや東京23区のみならず、西は奥多摩、東は船橋まで轟いていた。無論、私も彼女の御都合主義に感銘を受ける支持者の1人として、陰ながら彼女を支えているのである。こうなると親衛隊の設立も時間の問題かと思われる。
そんな彼女を街に張り巡らされているさまざまな危機から守るため、昨晩の私は焼肉屋を出たあと、彼女のすぐ隣を歩いていた。決して邪な気持ちがあったわけではないので、それだけはご了承頂きたい。

◯ 

結局、焼肉屋に鍵はなかった。もし見つけたらお電話しますねという言葉にわずかな期待を抱き、私は店を出た。
あの夜、酔いどれと化した我々は焼肉屋を出たあと、閑静な住宅街をあてもなく歩いていた。私は記憶を辿りつつ、15時間前に焼肉屋から出た二人を追う形で住宅街を歩いた。

「美味しかったね」
「最高の気分だよ。夜風も気持ちいい」
大してアルコールに耐性がない私は、チューハイ4杯で完全に出来上がってしまっていた。彼女も顔には出ていないがどうやら酔っているらしい。アルコールを摂取しなければ面白くない大人になどなりたくないが、アルコールを摂取したときだけの面白さはあってもいいと思う。
我々二人は酔いに身を任せ、ふらふらと住宅街を歩いた。先週までダウンを着なければ夜道を歩けないほどの寒さであったのに、今宵は生温い春風が吹いており、散歩にはうってつけの気候である。麗しき愛しの彼女も上機嫌のようで、それを眺める私は彼女より数倍は機嫌が良いと思われる。
そもそも彼女は哀れである。期せずしてこの世界の主役として生を受け、人々を熱狂させる大役を演じなければならないのだから。私のように一介の観客として世界に生まれた人間は彼女を眺めているだけで幸せである。神が彼女に与えた責務はプラチナのように重く、エベレストのように高貴だ。嗚呼、ノブレスオブリージュ。
「ねえ、私ね、面白いこと思いついたよ」
「ほお、なんだい?」
「この家のピンポンを押す」
「ほお、それは実に面白きことなり」
—— ピンポーン。閑静な住宅街に響く陳腐な音。隣で彼女はにやりと笑い駆け出した。え?そこで私はアルコールの摂取により、老廃物と化した脳を全力で稼働させ、状況を飲み込んだ。今すぐここを立ち去らなければまずい。私は全速力で彼女を追った。彼女は大きなリュックを揺らしながら、先ゆく道の角を折れ、目抜き通りに出ていた。やっとの思いで彼女に追いつくと、彼女は私を見て腹を抱えて笑いだした。私も脱兎の如く走ったことにより暴れていた心臓を落ち着かせ、共に笑った。
そのとき、ふとこれは私に光明が差しているぞと思った。このピンポンダッシュは完全に吊り橋効果である。吊り橋効果とは緊張や不安から来る胸の鼓動を恋のざわめきと勘違いし、実際にそれを共に乗り越えた者を好きになってしまう現象である。目の前で笑う彼女の私に対する好意が勘違いでも構わない。機は熟しつつある。私はサバンナの茂みに隠れるチーターのように鋭い眼光を光らせその時が来るのを待ち続けた。

第三幕 公園

私は人生において少なくない恋愛をしてきた。勿論、現在彼女がいないのだからその全ての婦女達と別れたということになる。つまり、仮に恋愛のゴールを健やかなる時も病める時も共に歩むことだとすれば、私の恋愛が成就したことはてんで一度もない。
こんな男に高貴な彼女を任せられるのかと問われれば、私自身もあまり自信はない。しかしながら、第二次世界大戦で自信に満ちた采配を振るい、その傲りこそが仇となり敗北したナチスドイツを見ていれば、自信とは必ずしも正しいとは限らない。一抹の不安を常に抱いている男の方がよっぽど実直で堅気であろう。無論、彼女に必要なのは私のような人間であると確信している。そのことを彼女に伝えるべく私は、世の男がすなる告白というものをしてみむとてするなり。

端から期待していなかったが、住宅街に鍵らしきものは落ちていなかった。仕方ないので、住宅街から目抜き通りへと抜けて、私はさらに歩を進めた。あの夜、我々はピンポンダッシュをし、二人で笑い合ったあと、この辺りで最も大きな公園へと向かった。途中、夜中まで営業しているスーパーに寄り、氷結とほろよいを合わせて4缶購入しそれを彼女の大きなリュックに忍ばせた。そのことを思い出しスーパーに寄ってみたが、アジア系の外国人店員に「ないですネ」と流暢な日本語で追い返された。ならばと私は公園に向かい歩き始めた。

公園へ行こうと提案したのは紛れもなく私だった。体内のアルコールと心地よい春風が私の恋慕の情を後押しし、終電迫る彼女に対し大胆な提案を持ち掛けさせたのである。
「いいね。君はいつも面白いことを考える」
「君といると想像力に翼が生えるんだ」
公園には大学生と思しき集団が円になり、酒を飲んでいる。また別の場所ではホームレスと思しき男性が段ボールを体に巻き付け、眠りこけている。この公園はいかにも東京のカオスぶりを表していた。我々は大きな樹を取り囲むように設けられたベンチに腰掛け、その夜5杯目となるチューハイを開けた。
「突然なんだけど、今までの彼氏はどんな人だったの?」
私は彼女に今までの彼氏を振り返らせ、暗に過去の反省点と次回以降の彼氏に期待する点を聞き出す作戦に打って出た。そして果てには将来の彼氏像に私という人間を当てはめてもらうのだ。私は彼女の恋人になるためには長期戦も辞さない体勢で臨んでいる。オセロは白黒簡単にひっくり返るが、そのような遊びで経験を積んだ軽率な野郎どもは恋人がいる婦女であろうとすぐに自らのものにひっくり返そうとし、かつ手に入れたら自らの主義主張で染め上げる。断固、私はそのようないかれぽんちではない。自ら寝返りができるようになるまで、ひたすら赤子を見守る母親のように、彼女が自らの意志を持ってして私に歩み寄るのを待ち続けるだけである。
「このまえ中学の時の彼氏はヤンキーだったって話したよね。高校ではその反動で好青年が好きになったの。すぐ別れちゃったけどね」
そう言ってはにかむ彼女の横顔が月明かりに照らされ、どきっとした。
「なんで別れたのさ」
「振られたの。少し重い話になっちゃってもいいかな」
「構わないよ」
「私ね、高校1年の冬に病気になっちゃって、2ヶ月半入院が必要だったの。大した症状は出なかったんだけど、人によっては重症化するからって」
私は目の前で胡座をかいて座っている溌剌とした彼女にそんな一面があるとは知らず、声が出なかった。
「それでね、当時付き合っていた彼氏に言ったの。私2ヶ月半入院することになったってね。そしたら彼氏、なんて言ったと思う?それは無理だ。別れようって」
「全然好青年じゃないね」
私はベンチの上に立ち上がり、意を決して言った。
「僕なら毎日お見舞いに行くけどね」
彼女は何も言わず笑っていた。その目は遠くの方を見ていて、決して私に向けられることはなかった。

第四幕 下宿

彼女には彼氏がいる。麗しき婦女に彼氏がいるというのは至極真っ当なことではあるが、内心は非常につまらない。
その上、確かな情報筋から仕入れた情報によると、これがまた良き男と言うのだから、神は人の上に人を作るではないかと疑義を唱えたくなる。付き合って1年半近く。東京の飲食店で働いており、ゆくゆくは故郷に帰り自分のお店を開きたいという。顔立ちは整っており、細身でスタイルも良く、博多弁を操るのだとか。
ほぼ完璧とも言える彼氏の存在は目の上のたんこぶに違いないが、彼女が愛しているのだから仕方がない。私はスポットライトが当たらない舞台袖でひたすら己と向き合い、自己研鑽を重ね、その時が来るのを待っていた。そう、機は熟しているのである。

結局公園にも鍵はなかった。となると我々が最後に向かったのは私の下宿である。公園を後にした我々は、彼女の終電がなくなったので、私の下宿で始発まで休むことにした。途中にコンビニに寄り再び缶チューハイを買ったので、念のためコンビニにも訪れて、鍵について尋ねてみたが、ありませんと言われた。いよいよ私の鍵は世界から消え失せたか、あるいは私の部屋にあるか、選択肢は2つになった。私は急いで帰路に着いた。

「終電無くなっちゃったよ」
彼女は高らかに笑いながら、私に今後の判断を仰いだ。
「僕の部屋にくる?」
私のこの提案に深い意味は露もない。確かにこの広い世界においては腐った外道どもが一定数存在し、飽くなき欲望を満たす虚構の営みのために、手を変え品を変え婦女達を底無しの闇に突き落としていると聞く。断固、許すまじ。
「んー、それはまずいんじゃない?」
彼女は表情一つ変えず、笑顔で答えた。
「男女の友情が成立するとお考えの貴女と私なら大丈夫でしょう」
ここで大切なことは彼女を安心させ、例え私に化けの皮があり、それが剥がれたとしても、その中は再び羊がいるのだと証明することである。私は羊の皮を被った羊であり、羊のマトリョーシカなのだ。
「確かに。行こうか」
どうやら私は危害を与えない羊であると認識されたようだ。彼女に認められた私は嬉々として、まるでできないパルクールを披露しながら下宿へと案内した。
途中のコンビニで購入した缶チューハイを開け、我々のささやかな三次会が始まった。この時間が永遠に続けばと願うが、もう朝は近い。永遠に飲んでいるアルコールのせいか、古巣に戻ってきた安堵感のせいか、私のまぶたは重くなってきていた。しかし彼女の溌剌とした精神は休むことを知らず、キャッチボールしようだの、枕投げしようだの、騒いでいる。私は愛おしく彼女を眺め、彼女が提案する全てに一通り付き合ったのちに、我々はそれぞれの布団に潜り込んだ。勿論、別々である。部屋の灯りを消し、私は今だとついに切り出した。
「ねえ、彼氏のこと好きだよね?」
悩んだ末に私はずるいやり方で愛を伝える方向に舵を切ってしまった。本来彼女が彼氏のことを思う気持ちと私が彼女を思う気持ちは独立した事象であり、彼女が彼氏のことを好きであろうとなかろうと、私はありったけの思いを打ち明けるべきなのだ。
僕のさぞ迷惑であろう問いに彼女は悩むことなく答えた。
「好きだよ」
その顔は暗がりでもわかるほどに可憐で、少しは悩んでくれてもいいじゃないかという考えはすぐにどこかへ飛んでいった。同時に彼女に愛される彼氏はなんて幸せなのであろうかと考えたりもした。
「そうか。なら彼氏と別れる予定はないんだよね」
僕は全てを終わらせたくなり、彼女からの最後通牒を待った。
真夜中3時の部屋に沈黙が流れる。その沈黙はいやに長く感じられ、私はこの部屋から逃げ出したくなった。
「今の彼氏と別れたら、私は北海道に帰るよ。もう東京にいる意味はないんだ」
覚悟はしていたつもりだったが、その言葉は私の心に深く突き刺さり決して抜けなかった。私の人生は今ここで終わりを告げたのだ。
「そうか。それはいいね」
今にも消え入りそうなか細い声でそう言ったあと、私は意識を失い深い闇に誘われた。

終幕 

私はやっとの思いで部屋に帰宅した。時刻は14時を回っており、午前を棒に振り午後もその半分が過ぎようとしていた。
部屋の中を再び探してみるが、やはり鍵はなかった。どこかで落としたのだろう。ということは昨日の全て、僕と彼女が歩いた夜は決して夢ではなかったということである。
僕はあの夜、意識を失い彼女よりも先に寝てしまった。次に目を覚ました時には、彼女の姿は綺麗さっぱりなくなっていた。
まるで夢のような出来事であったが、夢でなかったことが失った鍵をもって証明された。
私は部屋で一人、物思いに耽っていると、スマホがぶーっと鳴った。彼女からのLINEだった。
「楽しかったよ、ありがとう。また面白いことしよ」
私は昨晩、私の言動により彼女からの信頼を全て失ったと思っていたが、まだトモダチ継続らしい。私は心に宿る青い炎が再び燃え上がっているのを感じた。そうだ、また好機は巡ってくる、長い人生の中で待てる男のみが勝利の美酒を飲むことができるのだ。恋の永久機関と化した私にとって待つことは易きことなり。私は部屋で一人くすくすと笑いながらLINEの返信をした。
「楽しかった、まるで幻のような夜だったよ」

fin.

この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


そのお金で旅に出ます。