見出し画像

インターネットと啓蒙

ひとりの女性が死んだ。

ぼくはそのとき、夜更かししてしまった金曜日を引きずりながら、土曜日の午後のまどろみの中にいた。何気なく流し見するTwitterのタイムラインが多くの情報を吐き出しながら、下へ下へと滑っていく。
その中のひとつ、限りなく事実のみを書き連ねた無機質な文章と添えられた写真に目が留まる。訃報。
驚きや哀しみ、喪失感や諦念といった気持ちが複雑に混じり合い、体中を駆け巡る。
ぼくはそれからこのことが頭から離れなかった ——と言ってもまだ丸1日と少ししか経っていないが。しかし、いずれにせよネガティブなニュースについて考えることは精神衛生上好ましいことではないので、この文章をもって当該ニュースについては考えることをやめにしようと思う。

1日が経った今でもTwitterやinstagramでは著名人や関係者、あるいは一般人までもが様々な見解を表明している。
「有名人だから叩いてもいいなんて間違いで、皆同じ人間だ。誹謗中傷はやめよう」から「匿名での誹謗中傷も犯罪だ。法的措置を取るべき」まで、これら多くは人々の共感を得て、その力を増している。
でもぼくは、そのような啓蒙には少々限界があるのではないかと思ってしまう。もちろん、著名人や関係者が発する言葉は一定の抑止力があり、届く人には届くと信じている。だが、インターネットでの誹謗中傷はその登場以来、絶えることなく続いてきた。そして今後も続いてていくのではないかと思う。インターネットがインターネットである限り。

僕たち生物には根源的な欲求がある。生存と繁殖の欲求である。
今回のような誹謗中傷はこの生存欲求に起因しているのではないかと思う。
人類の歴史は自分の気に入らないもの(=異質なもの)に対して、それを自らの内部に取り込むか、あるいは排除するかを繰り返してきていて、たとえば、立場的に強い民族が弱い民族に対して行使する同化政策だったり、異なる宗教の間で起こる紛争やテロがその例である。
気に入らないという感情は、いわば異なる種に対する恐れであり、それを取り除かなければ、自らの生存が脅かされるということに繋がっている。

今回問題となったリアリティショーは、男女の共同生活にカメラを仕込み、男女間に起こる恋愛や友情、あるいは嫉妬や諍いを切り取り、コンテンツとして編集した番組である。視聴者は男女の言動に対して「彼女のこの行動は素敵」だとか「彼のこの発言はあり得ない」などの共感と不快感をあらわにして、SNSで一大ムーブメントになっていく。少なくとも週一回の放映日のSNSは、当該番組に関わる発言が散見されたし、放映日の翌日に友人に会うと「最新話みた?」といったコミュニケーションが取り交わされることもあった。
その中で、男女の言動に対し同じような感想を抱いたひとたちでグループが形成され、その共感の渦は人数が増えれば増えるほど大きくなり「彼女の言動におかしいと思うのは、当然なことなのだ」という意識形成を助長していく。そして果てには「おかしい人間は排除しなくてはならない」という意識が生まれ、過激な思想は誹謗中傷に走っていく。

彼女の死は未然に防げたのだろうか。
当該件に関して「覚悟がないなら番組に出演しなければよかった」や「誹謗中傷が嫌ならSNSをやらなければよかった」という声もあったが、そのようなゼロリスク信仰は論ずるに値しない。交通事故に遭いたくないなら家にいろと同レベルの発想である。
そして今回多くの著名人や一般人が発信したのが、大きく分けて二つ「誹謗中傷はやめよう」と「法的措置を取るべき」である。
ぼくは正直なところ、これらの啓蒙では解決にならないと思っている。それは先述の通りで、人間のなかに「異質なものを排除したい」という暴力的な欲求が組み込まれているからである。未成年の飲酒はいけませんと社会が広く啓蒙活動をしても未成年飲酒がなくならないように、どれほど著名人が誹謗中傷に警鐘を鳴らし、法律をチラつかせてもインターネットでの誹謗中傷は啓蒙では根絶できない。

今回のような問題を再び引き起こさないために、インターネットを通じた誹謗中傷でひとが命を絶たないために、何をすべきなのか。
解決策は一つしかないと思う。
それは誹謗中傷が物理的にできないインターネットにすることだ。
未来的な話になるが、誹謗中傷をAIが検知し、未然に書き込めないようにするのである。
ただし、これには必ず言論の自由が付き纏い、どの言葉をどういった文脈で利用したら誹謗中傷になるのかという議論を呼ぶ。つまり、インターネットにおいて誹謗中傷をなくすためには、人権そのものを規制し、中国のようなAI監視国家になるしかないのだ。

と、なればやはり完全解決は難しい。何しろ我々は人権を獲得してしまっているから。自由や平等を掲げた世界を謳歌してしまっているから。
人間は一度手に入れたものを手放すことはできないのである。

ぼくは今回の一連のニュースに対して、ある一種の諦念を抱いてしまう。それは、人類の気質に暴力性や残虐性があり、インターネットの誹謗中傷を防ぐことは限りなく不可能に近いと思うからである。

ぼくたちは、なにを守り抜かなくてはならず、どんなものなら妥協していいのか。
人類の歴史の中で獲得してきた多くの権利と不可逆的に進んでいく世界が複雑に絡み合って、加速していく。その先に誰にとっての理想な世界があるのかは、誰も知らない。

そのお金で旅に出ます。