知ることによって、人は喜びではなくブチギレるようになった
あけましておめでとうございます、本年も何卒よろしくお願いいたします。
さて、本年最初のnoteは、表題の通り
昨今のネット情勢を見ると「人は何かを知ることで、喜びよりもむしろブチギレることの方が多くなったのではないか」という内容です。
今日も誰かがブチギレている
作家のアイザック・アシモフは『人は知識を得ることで、快感を感じることができる唯一の動物である』との言葉を残し、また経済学者のジョン・ハワードも『人間は何かを知ることに、大きな喜びを感じる』と述べています。
しかし、今般、それも特にネットを介したコミュニケーションの場において、果たしてこれらの言葉は今なお事実として受け入れられるでしょうか。
今さらの段になって論じるようなことでは無いのですが、高度情報化社会、更には超高度情報化社会と呼ばれるような、手の中に収まったスマートフォンなりタブレットを使えば、いつ何処にいても即ネットに接続でき、あらゆる情報を得られるようになった、この現代、人々は20年前、30年前と比べて比較にならないほど手軽に、かつ多くの情報を入手できるようになりました。そのこと自体はきっと、おそらくは喜ばしい、便利なことであろうと思います。しかし一方で、その弊害についても(同様に今さら論じるような必要もないほどに)あちこちで論じられているのは周知の通りかと思います。
その中でも今回話題にしたいのは、知ることによって人々が感情を動かされ、しかもそれが、決してプラスの感情だけでなく、どうかすれば「憤怒」「憤慨」「忿懣」の様なマイナスの感情を喚起する結果となっている、という点についてです。
消費され広く伝播する『怒り』
直近1ヶ月における「怒り」を表題としたツイートを無作為に抽出しましたが、大概が「#colabo に端を発するNPO法人の補助金等の利用について」「#ワクチン 関連」「#自民党 政権など政治関連」に関するものでした。
内容の是非、および真偽についてはここでは問いませんが、ともかく、多種多様な議題において多くの人が「怒りで震える」「怒りが収まらない」といった、「怒り」をキーワードにした内容の投稿をしており、そしてそれらの投稿が更に別の人の怒りを喚起し、怒りの連鎖があちこちで勃発している、というのが昨今のインターネット、あるいはSNSでの現状かと思われます。
無論、現実に起こっている問題や課題について、多くの人々が知ること自体は望ましいことであり、それらの問題を知る過程において感情的になったり、怒りが想起されることは自然な流れであると言えます。しかし、現状において「知ること」と「怒り」があまりに密接に紐付いている内容が多く、何かを知ることで得られる喜びよりも、何かを知る度に、怒りが沸いてくる、知れば知るほど怒りが迸り、その怒りによって次なる怒りの投稿が行われ、その結果さらに別の人間が怒りを感じる――という、怒りの再生産があちこちで行われていること、それ自体は決して「良いこと」とは呼べないのではないでしょうか。
知ること、知れること、の弊害と功罪
5000以上のRTと1万以上のいいねを獲得しているこれらのツイートでも、引用先のRTやリプライ欄では(非表示にされているものも含めて)、攻撃的な、怒りの反応が多く寄せられています。繰り返し書きますが、決して内容の是非や真偽については此処では論じません。ただ、事実として、怒りの内容が誰か別の怒りを呼び、それが更に怒りを呼び、また次の怒りを――という連鎖が、現実として繰り返されている、という話をしています。
ブータンの例をあげるまでもなく、人は「今まで知らなくていたこと」を知ることによって、決して幸福、喜びを感じるだけでなく、時に「知ってしまったことで」ショックや怒り、失念を感じることがあるわけです。
テクノロジーの発展は残念なことに、情報の獲得と収集のハードルを大きく下げた功績と共に、罪過をも同時にもたらすことになりました。
無論、「だから、何も知らずに生きている方が良い」とは言いません。しかし、井の中で自らを幸せだと思っていた蛙を、わざわざ引き上げて海を見せ
「お前はこれほどまでに小さく狭い場所にいたのだ」と、事更に一人ひとりの耳元に、己の不幸や否運を伝える必要もないのではないでしょうか。
親ガチャ、子ガチャ、などといった言葉が広く普及した背景にも、「従来の限られたコミュニティの中ならば、互いに横並びで幸せに暮らせていた」状況が、自分達より遥かに裕福で満ち足りた、幸福な存在がすぐ側にいる、ということを知ってしまったが故に発生した言葉ではないかと思っています。
そして同時に、人は皆、ないものねだりをする、手に入らない物を渇望する生き物です。ある人は隣の金持ちの裕福さを妬み、その金持ちは隣の若者を見て若さを欲し、その若者は別の愛されている誰かに注がれる愛情に嫉妬するかもしれません。知ること、それも「知りたくないのに知ってしまうこと」によって人々は、自分と他人の比較が容易になり、それによって自らが持ち合わせていないものを今まで以上に軽々しく数え上げられるようになりました。その一方で、自分が持っていて、相手が持っていないものについては今まで以上に気に留めず、盲目的になっているように思えます。
誰もが、自分が持っていないものにはセンシティブに反応し、自分が持っているものには大して目もくれぬ、誰もがコンプレックスを刺激され、周囲から自分が劣った、劣等な、下等の、低劣な、粗悪な、三流以下の存在であるという被害者意識に苛まれるようになったわけです。この流れの一体どこに「知ること」による幸福さ、があるでしょうか。
最後に
残念なことに、あるいは当然のこととして、今後もこの傾向は止まることは無いと思われます。技術は絶え間なく進歩し、知ることは今以上に手軽になり(あるいはその中には玉石混交のデマや人心をささくれだたせる為だけに作られた情報も混じり)、結果として人々は今まで以上に加速的に「知ることによる不幸さ、悲しみ、辛さ」などを抱えていくことになるでしょう。今さら「それならもう電子機器やネットワークを全て捨て、人里離れた厭世生活を送ろう」といったところで、そんなことが実際に出来るのはきっと一握りの人間ですし、それこそ「そんな生活が出来るなんて羨ましい」とまた別の他者からの怒りや妬みを買うことになります。
せいぜい我々が出来ることとすれば、「あっ怒りが沸いた!」「ムカつく!」という感情が生まれた時だけに限っては、その一瞬だけでもネットから離れる、スマホを手から離してクールダウンすることで、少なくとも次なる怒りの火種となるような情報を自ら生み出すことが減り、それは回り回って自分に向かってくる次の火種を減らすことにも繋がるかも知れません。
どうか皆さんが、今後も「そのままにしておくと、とにかく不快や怒り、憤懣が押し寄せてくる2023年のインターネット」において、少しでも穏やかにこの荒波を乗り越えていっていただくことを、心から祈っております。
なお最後の最後ですが、
冒頭に書いた、この内容について、
アイザック・アシモフは著書でそんなコトは言ってないらしいですし、
経済学者のジョン・ハワードに至ってはおそらく実在もしていません。
知らんことを知らされると、多少イラッとする実例でした。
はいイラッとした人はスマホ置いてネットから離れて下さい。
本年も何卒よろしくお願いいたします。