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情報という支配-テレビについて

 情報というのは誰から教わるかで話が違ってくる。お酒の席で聞きたくもないお酒のうんちくをベラベラ語りだす先輩と、品のある人のさりげなく話すソレとでは、全く同じことでも私からすれば、事情が大きく異なる。 

 そんな「情報」を、先入観なくすんなり教わっていたのがテレビであった。私はこの四角いのから、流行だとか、何が面白いとか、世の中のことも色々と教えてもらった。私の世代はこういう人が多いと思う。テレビで使っていた言葉を、次の日の学校でだれもかれもインコのように繰り返しては、大人になった。すっかり見なくなった今も、別に「ざまあみろ」なんて思っていない。それなりの敬意は持ち合わせている。 

 しかし、なくなったらなくなったで、特に私の生活は変わりもしないし、困りもしない。それで、改めてテレビというかマスコミの抱える矛盾をここに書きたい。 

 というのも、彼らは知識とか常識を独り占めにして、それを売り捌く支配者だったのではないかということである。ニュース、トレンド、ファッション、生活するうえでの多く情報を牛耳ってきた。それは、他に選択肢がなかったことで、彼らに自信をつけさせ、どんどんと大きくなっていった。自由とかリベラルの名のもとに出発したはずのものが、彼らもまた一般人を縛り付けて、意図して流れるところへ流すことを知ってか知らずかやっていたわけである。 

 ニュースの言うことばかりが世の中の問題なのか、はたまた対岸の火事にまで逐一頭を悩ませることが彼らの目指す理想郷であったのか。流行だってそうである。別に知らなくても生きていけるものにものさしを持ってくると、自ずと序列のようなものが生まれる。それに乗っかる人も興味のない人にも、いずれにしても首輪をつけてどこかへ導こうということになって、各人をあらぬ方へ向かせる。一見すると視野が広くなったようで、実は狭くなっているような巧妙なつくりをしている。

 金持ちは金持ちであることを隠すように、権力のあるものがその力をあえて隠したりする。マスコミの場合、独裁者(強い言葉なのであんまり使いたくない)だのなんだの言って糾弾しているあなた方もまた、私生活の支配者であり、独裁者のはずだが、それを知ってのことなのか。だから、体制側を全面支持するとかそういうことではなくて、それに相対するという名のもとにいる彼らもまた同じ構図をつくりだす。彼らもまたひとつの体制なのである。仮想の敵国をつくって、「だからこっちを信用しろ」とあれこれ言う、とある国でやっている眉唾なやり方となにが違うのだろうか。 

 さて、時代が変わってテレビの影響力は確実に無くなっていった。インコのように昨日テレビでおぼえた言葉を繰り返して、どれくらいの人がそれを理解するだろう。今の小学生は学校の話題になにを話しているのだろう。似たようなものも出できたが、持つ力という意味では明らかに弱まった。そしてこちら側には選択の自由が生まれた。我々は見たいものを見て、知りたいことを知る(それにも限りはあるが)。マスコミ的にはそれは危惧すべき状況なのだろう。我々は大衆ではなく個人としてどんどんバラバラになる。もう同じ方向を無理に見る必要もないし、それを強いる者もない。これもひとつの「自由」ではないか。個の時代を邪魔していたのは他ならぬテレビの方ではないか。 

 私も新聞やテレビが跡形もなくなくなるとは思っていない。が、力のなくなったマスコミは他のエンタメのように単に楽しせる娯楽にしかなくなった。ここからどうなるのだろう。 

追記 今日サウナで見た仰天ニュース面白かったです。 

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